そろそろ8月も月末に近づいてきました。とっくにアップしていたと思った記事が残っていましたので8月が終わらないうちに。杉田水脈議員の「生産性」についてのツィッターから:
内田樹さんがリツィート
渡辺智顕
@abi_nabe 8月9日
あの発言は「杉田水脈氏だけの問題」ではない「自民党と自称保守」を支配している根本思想東洋経済オンラインhttps://toyokeizai.net/articles/-/232518
◎内田樹氏の8月9日のツィッターで紹介されていた東洋経済オンラインの杉田水脈議員のいわゆる「生産性」発言に対する批判記事です。問題の杉田水脈議員はその後姿を現さず、8月16,7日、国連の差別撤廃委員会のNGOによるブリーフィングにサングラスをかけて出席している姿が目撃されています。LGBT等の性的少数者に対する差別発言について杉田氏は謝罪も撤回もしないままですが、自民党が庇い続けていることから、差別については杉田氏個人の見解ではなくて自民党の問題です。
◎古川雄嗣氏の記事で興味深いと思ったのは後半の項目です。自民党の「生産性」についての考え方は、出産だけではなくて、教育問題でも同じだと言います...後半の項目は<■「生産性」は教育改革の根本思想■道徳を教育すればお金が儲かる■「保守」すべき大事なものを見失った哀れな人たち>
◎ここで、古川氏は八木秀次(やぎひでつぐ)の名前を出します。安倍政権のブレーンであり日本会議とも関係があり、憲法改悪のシナリオを書いているのはこの人ともいわれています。天皇皇后の憲法に関する発言に対して傲然と反論したことでも記憶に残っています。八木氏についてWikipediaより:
八木秀次 (法学者) 1962年3月9日(56歳)は、日本の法学者。麗澤大学経済学部教授。専門は憲法学、法思想史。一般財団法人「日本教育再生機構」理事長、フジテレビジョン番組審議委員、産経新聞正論メンバー。「新しい歴史教科書をつくる会」第3代会長。
2006年の第1次安倍内閣発足に際し、中西輝政、西岡力、島田洋一、伊藤哲夫と共に安倍晋三のブレーンとして報じられる。同年10月22日、八木を理事長として一般財団法人「日本教育再生機構」が、2007年(平成19年)7月24日には八木を事務局担当として教科書改善の会が発足した。現在、育鵬社から歴史、公民科教科書を発行している。 2013年1月、第2次安倍内閣より「教育再生実行会議」委員に指名。
女系天皇容認論への批判、フェミニズムへの批判:男女共同参画やフェミニズムに反対。ジェンダーフリーに反対。 選択的夫婦別姓論についても反対。同性婚への反対。渋谷区のLGBT条例にも反対。
憲法を巡る天皇・皇后の発言に対する発言:2013年(平成25年)10月20日、皇后は、誕生日にあたってのコメントで五日市憲法草案に言及した。さらに同年12月18日、天皇が、やはり誕生日にあたってのコメントで「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」と述べた。
これに対し、八木は「両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねない」「宮内庁のマネジメントはどうなっているのか」と正論2014年4月号で非難している。
憲法改正:憲法9条を改正するべきとしている。その他、天皇の元首化、国防義務の明確化、幸福追求権(第13条)や男女平等を示した第24条の改定をするべきと主張。
◎前置きが長くなりました。それでは本文です:
あの発言は「杉田水脈氏だけの問題」ではない
「自民党と自称保守」を支配している根本思想」
古川 雄嗣 : 教育学者、北海道教育大学旭川校准教授 2018/08/10
自民党の杉田水脈議員による、いわゆる「生産性」発言などLGBT等の性的少数者に対する差別的発言が問題となっている。だが、こうした発言の元になった認識は、杉田議員のみの問題ではなく、もっと根深いものがあるのではないか。
『大人の道徳 西洋近代思想を問い直す』を著した気鋭の若き教育学者が、その源流を探る。
←杉田水脈議員の辞職を求め、自民党本部前でデモをする人々(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)
■意気地も誇りも美意識もない「いじめ」の構造
自民党・杉田水脈議員が『新潮45』8月号に寄稿した「『LGBT』支援の度が過ぎる」における「生産性」発言が波紋を広げています。
LGBT等の性的少数者について、杉田氏は「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と問題提起しました。それに対して、当事者や支援者、そして朝日新聞や毎日新聞をはじめとする、いわゆる左派・リベラル派のメディアや知識人から、一斉に「差別だ」「人権無視だ」「優生思想だ」といった批判が噴出したわけです。
当然のことでしょう。私自身は、基本的に、いわゆるサヨクが、あまり好きではありません。ことさらに弱者や少数者の側に立って正義の味方を気取る姿勢には、気色の悪い偽善と裏返しの権力欲を感じますし、なんでもかんでも「個人の自由」や「人権」の問題にしてしまう教条的な思考回路も、イデオロギッシュで不健全であると思います。
しかし、それでも、ことこの問題に関して言えば、圧倒的に正しいのはサヨクのほうです。いや、正しいか正しくないかという以前に、まずそもそも、彼女の記事は(「全文を読んでほしい」という彼女の言うとおり、全文を読みましたが)、あまりにも「卑劣」で「醜悪」であると、言わなければなりません。
彼女は、「『常識』や『普通であること』を見失っていく社会は『秩序』がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません」などと、一見「保守っぽい」ことを言っていますが、どう考えても、「常識」を「見失って」いるのは、彼女自身のほうでしょう。
彼女がやっていることは、弱い者をたたき、異質な者を排除することによって、自分(たち)が「普通であること」を確かめ、集団としての「秩序」を保とうとすることでしかありません。これはまさに、「いじめ」の構造そのものです。いやしくも「保守」を自称し、日本の伝統だの、日本人としての誇りだのを口にするのであれば、せめて、「弱きを助け強きをくじく」といった意気地や誇りや美意識を、もう少しは大事にしてほしいものです。それがカケラも見られないから、彼女の文章は、ただただ「卑劣」で「醜悪」なのです。
■20年来の自民党の根本思想がリピートされたにすぎないとはいえ、あまり杉田氏個人、あるいは彼女の今回の「生産性」発言そのものを批判しても、意味はないでしょう。繰り返しますが、彼女が書いた記事は、ほとんどまじめに批判する値打ちもないほど、悲惨なものです。すでに示されているさまざまな批判――「ひどい差別だ」「人権感覚がない」「優生思想につながる」「生産性で人間を測るのはおかしい」「事実誤認が多すぎる」「LGBTのことを何も勉強していない」等々――は、すべて、まったくそのとおりです。(この項以下省略)
「生産性」という概念は、本来「物」に対して使うものだ。それで人間の価値を測ろうとするなど、もってのほかだ。こういう批判が相次いでいます。
まったくそのとおりなのですが、しかし、この「生産性」の思想は、もうかれこれ約20年来、たとえば一連の教育改革において、あまりにもあからさまに語られ続けてきたものです。これはすでに、わが国において、幼児教育から高等教育(大学教育)まで、すべての学校段階を貫く、教育政策の根本思想なのです。
たとえば大学は、「役に立つ人材を作れ」との掛け声の下に、さまざまな「改革」を強いられています。「役に立つ」というのは、「生産性がある」という意味ですし、だから大学は、「人間を育てる」のではなく、「人材を作る」ことをしなければならないのです。
さらに、その「人材」を「作る」ための方法として、導入を義務づけられているのが、いわゆるPDCAサイクルです。これは、もともと工場で生産する製品の「品質管理」の方法です。こんにちの大学は、学生を「製品」と見なして「生産」し、それを「品質管理」することを、法律によって強制されているのです(詳しくは、藤本夕衣・古川雄嗣・渡邉浩一編『反「大学改革」論――若手からの問題提起』ナカニシヤ出版、2017年を参照/https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4779510813/toyokeizaia-22)。
さらに、ここ数年、小中学校での「教科化」が話題になっている「道徳教育」もまた、じつは、まさにこの「生産性」の思想に基づくものにほかなりません。
意外に思われるでしょうか。たしかに、政府自身は(あるいは、「教科化」を支持する教育学者たちの多くは)、教科化を中心とする道徳教育の強化・推進は、「いじめ」をなくすことを何よりの目的としている、などと言っています。
しかし、違います。これは明らかに方便であり、政府が道徳教育を推進する真の目的ではありません。彼らのホンネは、国民の「生産性」の向上と、それによる「経済成長」です。そのためにこそ、道徳教育が必要だと、彼らは考えているのです。
このことは、私などがとやかく言うよりも、当事者の口から直接語ってもらったほうがよいでしょう。たとえば、次の文章を読んでみてください。
「我が国は今後、人口の減少、中でも生産人口の大幅な減少に直面する。その打開策として、これまで生産に参加していない人や、すでにリタイアした人の活用が考えられる。『一億総活躍社会』はそれを言ったものだ。同時に現在の国民が質を向上させ、これまでの何倍もの生産性を上げることが必要となる。その点において教育に期待されるところは大きく、教育の在り方はその立場から見直されなければならない」
何も断りがなければ、これは件の杉田氏の記事からの引用ではないかと、思われるのではないでしょうか。そう言いたくなるほど、「生産性」を前面に押し出しているこの論者は、何を隠そう、安倍首相のブレーンとして「教育再生実行会議」の委員などを務め、そこで道徳の「教科化」を提言した人物の1人でもある、麗澤大学教授・八木秀次氏にほかなりません。しかも彼は「なぜ今、『道徳』教育が必要なのか」(blogos.com/article/175399/)
と題して、こう書いているのです。
彼の評論は、こう続きます。あるデータによると、「うそをついてはいけない」「他人に親切にする」「ルールを守る」「勉強をする」という4つの「基本的なモラル」の教育を、すべて受けた者は、1つでも欠けた者よりも、年収で約57万円、多くの所得を得ている。さらに、1つも教育されていない者と比べた場合、その差は約86万円にもなる。そうすると、「年収が多ければ当然、納める税額も多くなる。社会保障関係の納付金も多く、受給額は少ない」。したがって、「道徳教育」は「国家・社会全体として活力を産み、利益になるということだ」。こう論じて、彼は、「教育で国民の質を上げることが経済的な効果を持つことがわかる。教育を国家戦略として位置付け、道徳教育を重視するのはその意味においてだ」と、この評論を締めくくっているのです。
「道徳教育」は、国民の経済的な「生産性」の向上をこそ、目的とするものである。「教科化」を提言・推進した当事者の1人が、はっきりと、そう述べているのです。
これは約2年前に書かれた評論ですが、私はむしろ、この八木氏の文章にこそ、かなりの驚きとショックを禁じえませんでした。
ここまであからさまに、まったく恥じる様子もなく、「利益」と「生産性」だけが、日本が国家として目指すべき価値であり、「道徳」も「教育」も、ほとんどそのためだけにあるものなのだと、首相のブレーンを務め、いわゆる「保守」を代表する論客として知られる大学教授が、はっきりと言ってしまえるということに、私は愕然としました。
それに比べれば、今回の杉田氏の記事など、(誤解を招きかねない言い方ですが)まだかわいいものです。彼女はしょせん、こういった八木氏のような「自称保守」の論者たちの言説を、いい具合にコラージュしてリピートしていれば、「若手の保守政治家」などといった自分のポジションを確立できるだろうと考えているにすぎないでしょう。ほんとうの問題は、彼女がそうやって、ほとんど何の深い考えもなしにリピートしてしまった、自民党と自称保守を支配している根本思想にこそあるのです。
それは、奴隷根性とニヒリズムにほかなりません。
なぜ「奴隷」というのかといえば、彼らは人間を、自由な意思をもった「人間」としてではなく、単なる「物」としてしか、見ることができなくなっているからです。ここでいう「物」とは、一方では「生産手段」として労働に駆り立てられ、他方では「欲望の操り人形」として消費に駆り立てられる、労働と消費の自動機械のことです。これが「奴隷」でなくて何だというのでしょうか。
しかも彼らは、国民がそのような「奴隷」であることをこそ、むしろ善しとし、したがって国民にその「奴隷の道徳」を教え込み、それによって国家が「奴隷の国民」に支配されることをこそ、理想として目指そうとしているのです。
そして、この底抜けの奴隷根性をもたらしているものこそ、信ずべき価値を見失ったニヒリズムと、それに対する不安ではないのかと、私は思います。なぜなら、信ずべき価値を見失い、善悪と美醜を、暗黙のうちに、しかし確信をもって、判断することができなくなった者は、目に見えるわかりやすい基準に、その根拠を求めます。それが「数字」です。「道徳を教えれば、年収がいくら増える」などというのは、まさにその典型ではないでしょうか。
「道徳を教えれば経済が成長する。だからそれは正しい」
「同性愛者は経済に貢献しない。だからそれは間違っている」
この見るも無残なニヒリズムこそ、「自称保守」の政治家と知識人を、奴隷状態に向かって強迫症的に駆り立てている、不安の正体にほかなりません。彼らは、むしろ「保守」すべき大事なものを見失った、哀れな人たちなのです。そして、何がほんとうに「保守」すべき大事なものであるのかを、暗黙のうちに知っているのは、多くの「常識」ある国民のほうなのです。