同窓会とルミナリエ

七日の金曜日は、学生時代のサークルの同窓会でした。夫は同じサークルの二年先輩。同窓会の呼びかけがある度に二人で参加という具合には行かず、夫.一人で参加が何回もあったりしましたが、二か月ほど前に案内があった今回は、会員しか入れない神戸倶楽部のレストランで昼食ということでしたので、二人で出席の返事を出していました。先週、一年に一度のOクリニックで風邪薬をだしてもらったのも、この集まりがあったので治しておきたかったからでした。
暖かい師走がこの日から真冬になるということでしたが、雨は上がり、お天気になりました。母の夕食が気になったのですが、快く行っておいで、夕食は自分で作って食べるからと言ってくれました。ちょうどこの日は神戸のルミナリエが点灯される日。夫がまだ見たことがないというので、帰りに寄ってみようということに。神戸倶楽部もネットで調べると三宮から北野坂を上って、風見鶏の館の前の通りを西に進んでトアロードを北に上がったドン突きにあるようなので、そのコースで歩いて行けるだろうと、11時前に家をでました。
10月に西宮の兵庫県立芸術文化センターへ行くとき、阪急神戸線西宮北口で降りましたので、以西の三宮へ行くのは何年振りかです。実は、私は23年前、阪神大震災で神戸が大きな被害を受けた年の第一回目のルミナリエに母を誘って見に行っています。阪急六甲は学生時代4年間通ったところですし、その後、結婚して沼津、加賀市と移り住んで、生まれた二人の息子と転職した夫の転勤で大阪勤務になったとき住んだのが阪急六甲と国鉄六甲口の間の宮前商店街の南のはずれ。そこで3年半。長男は幼稚園から小1、次男は幼稚園の年少さんの秋まで暮らしていました。子供たちが行き来して親同士仲良くなった方も、商店街の知り合いもいました。

4月、国鉄で六甲道まで開通したとき、昔住んでいたところを二人で訪ねました。アーケード街は跡形なく、辺り一面焼け野原、平らになってしまって、写真で見た東京大空襲の後のようでした。ロープで建物のあった区画が仕切ってあり、板切れに地震で倒壊したり焼け出された方たちの移転先の住所や通信文が書いてありました。こんなにひどいことになっているとは…息を飲みました。それと同時に、もし箕面へ引っ越していなければ、私たちもどうなっていたかわからなかったとわが身の幸運に感謝しました。その後、阪急電車の線路の北側を訪ねてみましたが、不思議なことに、倒壊した建物はありません。同じ六甲でも阪急電車より南、国鉄六甲道辺りがひどかったようです。灘生協のビルも全壊で跡形なく、辺りは見覚えのない知らない土地のようでした。
それから、半年以上経った12月にルミナリエの話が。当時はボランティア元年。あまりの凄まじい被災の様子にみんな何かできることはないかという思いでいました。山口のWさんやUさんたちと近くの豊能障害者労働センターへ出かけてお手伝いを始めたのもこれがきっかけ。復興の手助けになるのは神戸へ行って買い物をする事と言われていました。
大学の3回生だった息子が、高校の美術仲間と一緒に三宮で壊れたビルの空き室を借りて4人展をするというので、それを見て、夕方ルミナリエを見ようと母を誘って出かけました。北野坂を少し上った所の小道を入ったところのビルの一室。大通りは何とか歩けても、この辺りは震災の被害が濃厚。展示している前衛?作品に、私は言葉が出なかったのですが、母が上手に言ってくれて助かりました。このときの母が、私の今の年齢、私は51歳でした。あれから23年です。

神戸の街は随分変わりました。北野坂阪急三宮の駅を出て、北に伸びる上り坂。突き当りには風見鶏の館がありますが、おしゃれなお店が並んでいます。途中、スターバックスコーヒー店「北野物語館」があります。

北野物語館は、1907年(明治40年)に建築された木造2階建ての住宅で、建築当初は米国人が所有していたものです。
1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の被害を受けた後、取り壊される予定でしたが、神戸市が建物の寄贈を受けた上で解体・部材保管し、その後、民間事業に部材を譲渡して、平成13年に現在地に再建・移築されたものです。


多分この建物の道路を挟んだ反対側にダルビッシュミュージアムト書かれた建物が見えました。野球のダルビッシュ有選手のことでしょうか。
段々のぼりがきつくなって、歩いていると汗をかくぐらい。時間的には余裕があるのですが、風見鶏の館はパスして西に向かって歩くことに。

かわいい建物が見えてきたと思ったら交番。じゃ、入ってみて尋ねてみよう。若いイケメンの可愛いお巡りさんが机の前に座っていました。「神戸倶楽部へ行きたいんですが、この道で合ってますか?」
立ち上がって壁に貼ってある地図を見ながら、「目的地はここですから…」「ここはどこ?」「この辺りですから、ここをそのまま西に行って道なりに下ってもらえば、ここがそうです」と大きな敷地を指し示してくれました。交番から出たら、写真を撮って遅れてきた夫と会えました。「どこにいたんだ?」「交番で道を聞いてた」「交番? ほんとだ、交番と書いてある」。写真を撮り忘れましたが、ネットで探すと出てきました。
地図で見た通り歩いて道なりを下って、あそこがそうかな…と思っていると一人の女性がこちらに向かって。見覚えがあるので、一年先輩だとわかりました。早く着いたのでそのあたりを見てくるとか。


大きなお屋敷のような敷地が見えて、鉄の門が開いている石造りの門柱に「神戸倶楽部」の文字。ここです。(建物全景の写真はこの日の名簿から)日本庭園の紅葉が映えています。バラの花が壁を伝っている洋風の建物が見えてきました。ここです。20名が集まりました。1960年代を過ごした者の集まりです。私ともう一人が最年少。それより上の学年が、4,5.6名ずつくらいで、最年長は82歳。3つの丸テーブルに分かれて座りました。


先に乾杯してコースのお料理をいただいて、最後に一人ずつ名前と近況を。憧れたり目標にしたりした先輩たちですが、さすがと思う活動をされている方も。元先生で今は教えてほしという若者に英語を教えたり、シニアの英語クラブを作って教えたり、恩師の身寄りのないアメリカ人の先生を看取ったり、ご自分は天涯孤独とか。お話しされるまでリウマチを8年も患っておられるとは思えない先輩女性も。ヒールの靴を履いて坂を下っておられるのにびっくりでした。そうかと思うと、「夫の後始末」を読んでいるといって「早すぎるんじゃないか」と言われ「『夫の始末』じゃないから良いんじゃない」と答える人も。
お料理は前菜と蕪のスープとメインディッシュにデザート。飲み物は飲み放題でしたが、お料理はとても美味しくいただけました。

帰りはトアロードを下ってセンター街に入り、学生時代にみんなでよく入ったという「純喫茶」店へ。私は、自宅通学生で六甲からまっすぐ箕面に帰っても当時、1時間半から2時間がかりだったので、三宮の喫茶店へ行くことはなく、初めてのお店でした。同学年の彼女が「純喫茶って懐かしい、うたごえ喫茶とかもあったね〜」「音楽喫茶とか・・・」と二人で。遠方からの方たちは途中阪急やJRで帰られましたが、それでも11名で2次会。
終わって、二人でルミナリエの会場へ。大丸から少し南に行くと人がいっぱい。三井住友銀行の前で子供たちの歌声がしています。ルミナリエの白いアーケードが見えて、すでに大勢の人が詰めかけていました。このまま6時の点灯まで1時間は待てないということで、帰ることに。

茶店から出た後、ルミナリエに行くと言ったら、お二人の方は初めの頃に見に来たとおっしゃっていましたし、震災の時はこの辺りもひどかったけどよく復興できたよね〜という話にも。23年経っても大災害元年のような阪神淡路大震災の記憶は消えることはありません。それ以後、大きな地震が日本中で起こり、8年近く前には大津波原発爆発まで。震災直後の助けあいや思いやり、自然に対する畏敬の念、人間としての謙虚さなど、一番忘れてほしくない政治家さんたちに、思い出してほしい、立ち返ってほしいと切に願います。ルミナリエの写真はこの日最終のNHKの番組から。ルミナリエは1995年の12月にスタートして今年は24回目。今年はまた兵庫県政150周年記念の年だそうです。