「震災後の出会いは濃密で温かい。その出会いの中で今私はダウン症の息子と前へ進む」

今日は七夕。スーパーの入り口近くに七夕飾りが置いてあり、子どもたちが思い思いの願いを短冊に。7月カレンダーの写真は、岡本にあるチョコレート菓子の専門店、モン・ロワールのカレンダー。母が千里の店で毎年12月の御礼のお使い物にチョコレートの小箱をまとめて購入。去年は私が代わって出かけて、景品でもらったもの。毎月、季節の動植物が描かれていますが、7月のこの絵が素敵です。

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若竹さん、同じ難病の方が国会議員に立候補するような政党(政治団体)が生まれましたよ。十何年も前に24時間介助を受けて自立を目指し、やり遂げた貴女のことですから、生きておられたらきっと喜ばれたでしょう・・・ 

山崎 雅弘 Retweeted

ソウル・フラワー・ユニオン @soulflowerunion 7月4日

れいわ、重度障害者2人を「特定枠」に

当選した場合、国会内の幅広いバリアフリー化が求められることになるとみられる」

この2人は国会へ送り出したい。彼らが当選すれば、健常者社会で無視され続けてきたあらゆる事柄にスポットが当たる。今回投票権、5票ぐらい欲しいな。
 政治団体「れいわ新選組」代表の山本太郎参院議員(44)=東京選挙区=は3日、東京都内で記者会見し、参院選(4日公示、21日投開票)比例代表で優先的に当選する「特定枠」に、介助が欠かせない重度身体障害者の舩後(ふなご)靖彦氏(61)と木村英子氏(54)を擁立する方針を明らかにした。

豊能障害者労働センターの機関紙「積み木」(290号)が届きました。表紙の一面は、代表の小泉祥一さんの車いす姿の写真入りで「ま、ええか。」というタイトルの記事です。37年前の設立当時の自立生活に向けてのお話が書かれています。

私が、このセンターへ顔を出すようになったのは今から23年前の阪神淡路大震災の年。4月になってから、昔住んでいた六甲の宮前商店街を訪ねた時、私たちが住んでいた跡地に建った高層マンションは全戸にX字の亀裂が入って空きビルになっていました。商店街の両側はもちろん、知り合いのお宅も跡かたなく、瓦礫を敷地ごとに寄せ集めた中に木や段ボールの立札が立っていて、それぞれ名前や無事であること、連絡先などが書かれていました。あたり一帯、まるで爆弾が落ちた後の焼け跡のようでした。

箕面も大きな揺れに襲われて、我が家も棚の食器が割れたり,モノが落ちたりしました。宝塚や西宮、すぐ近くのなじみの地域が大変な被害を受け、小学校の同窓生もマンションがダメになって実家の近くの空き家にしばらく住んでいました。

テレビではボランティアの活動が紹介され、私たちお茶飲み仲間も近くで何かできることはないかと探していたときに、二中の近くにある障害者労働センターへ行ってお手伝いをさせていただくことになりました。

(関連ブログ:https://cangael.hatenablog.com/entry/20100719/1279500601)

障害者と健常者が共に働いてともに収入を得るという考えで、主に全国から善意で寄せられる衣類や食器や物に値段をつけて,市内にあるいくつかのリサイクルショップでそれらを販売していますが、一方で、独自商品の開発に熱心で、今では、オンラインショップ積木屋を開いてユニークでかわいい商品やおいしい食品の販売をしています。

その機関紙「積み木」で、福島県郡山に住む方の記事を読み、すぐ、電話をしました。ブログ掲載の許可を得るためです。すぐ出てきてくださった方が田岡さんという編集責任者の方でした。実は、田岡さんとお話しするのは初めてではありません。以前も同じお願いをしたことを田岡さんも覚えておられました。さて、今回は、田岡さんがチェルノブイリ原発事故のころからのお知り合いとのこと。快く許可してくださって、また少しお話ししました。田岡さんおすすめの記事です。

全文を書き移してみます:(↑ブログのタイトルは、本文記事の中から私が選んでつけたものです)VVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVV

 

  静かに長い闘いを決意しながら

         粛々と日々を過ごしていきたい

                  福島県郡山市在住 野口 時子

  先日『東京オリンピック』の聖火リレーのルートが発表になりました。なんと出発地点が福島県、しかも『J(ジェイ)・ヴィレッジ』となりました。『Jヴィレッジ』は一九九七年日本初のサッカーナショナルトレーニングセンターとしてオープンしました。『サッカーの伝説の聖地』プロサッカー選手の育成学校である『JFAアカデミー』の拠点でもありました。しかし、二〇一一年三月の東日本大震災福島原発事故後は『原発廃炉作業の拠点』として一日三〇〇〇人もの方々が防護服と呼ばれる使い捨てのタイベックスに着替えて放射能との戦いに向かう場所となりました。

 原発廃炉にするには四〇年以上かかると言われています。原発の大事故が起きてからまだ八年しか経っていません。廃炉にするための原子炉の内部さえ未だ全容がわからないのです。それなのに今度は『東京オリンピック』の開催が決定したことを受け、「震災前よりもさらに魅力的なトレーニングセンターをコンセプトに!」と福島県知事が二〇一六年に記者発表し総工費二二億円の内の七億円の寄付を呼びかけました。いまだに避難解除になっていない地区や自主避難している人たちが全国にたくさんいる今、この場所に世界の一流選手を呼び込もうというのです。本当に大丈夫なのでしょうか? 福島県民は置き去りなのか…と私は感じてしまいます。

 もちろん『福島復興』『東京オリンピック』を大反対しているのではありません。ただ、あった事実を無き物にして忘れ去ることに一生懸命になっている気がするのです。「地産地消」「安全宣言」「食べて応援!」「福島再生」いろいろな言葉や楽しそうなイベントで後ろを振り向かないように、立ち止まることがないようにと世の中は色々な人たちの色々な想いをふりおとしながらズンズン進んで行っているように思います。

 そんな世の中から振り落とされた私たち家族は福島原発から七〇km離れた中通り郡山市に住んでいます。八年前の原発事故以降、洗濯物を外に干したことがありません。お日様にあてたふかふかのお布団にも「あの日」以来寝ることはありません。スーパーに買い物に行っても「あの日」以来、野菜コーナーは見なくなりました。今の自分にできることをできる範囲で続けています。震災後四年で中学を卒業した娘は進学のタイミングで西日本へと行ってもらいました。

 震災当時、小学校に入学したばかりの息子はその夏休みから中学三年生になった今でも一人で北海道へ三週間、冬は一週間の保養に行きます。彼はダウン症という障害があるのですが、快く繰り返しに保養を開催してくれる北海道の皆さんには感謝しかありません。親元を離れて暮らす我が子たちの成長は本当に関わっていただいた多くの皆さんのお陰です。

  震災後の出会いはとても濃密で温かい関係がうれしいです。その出会いの中で今私はダウン症の息子と前へ進もうと奮闘しています。彼やその仲間たちが豊かな青年期、大学生のような自由な時間を過ごして欲しいと思う私たち保護者は『福祉型専攻科』を設立しました。次は彼らが働く場の確保です。みんな同じ『共生社会』を目指して彼らが役に立つことがあるかもしれない!と模索中です。そして、親として最後の仕事は『終の棲家・グループホーム』を作ることです。親が心を残して死ぬ事のないように、彼らが愉快に人生を全うできる場所を作ることです。日本は未だ障害者理解がとても乏しいと思います。

 それは震災時の避難所でもそうでした。いつもと違うことにパニックになり大きな声を出したりしただけなのにその家族は周りの冷たい視線に耐え切れず余震の続く自宅に戻ったり、「保養先も見つからない・・・」とうなだれる家族がたくさんいました。「保養なんかうちは無理」とはじめから諦める家族の方が多かったかもしれません。ただただ身を潜めていた…そんな感じだったのでしょうか。こんな思いにさせる世の中であってはならないと思います。みんなが違いを認め合い、自分の意見をちゃんと表明でき、討論でき、差別のない、偏見のない、自分を必要としてくれる誰かがいて、頼れるみんながいる!そんな優しくて温かい世の中になって欲しいと思います。私がやれることは、息子やその仲間たちが住む「グループホーム」を中心にして地域に生活している人たちみんながそれぞれ人を思いやることができるそんな心優しい場所となるようにゆっくり時間をかけて築いていきたいと思っています。

 東日本大震災から八年たった今、娘は親元を離れて放射能の危険から解放されて自由に学生生活を送っています。しかし原発事故はまだ終わっていません。娘が福島出身だと差別されず無事結婚し無事に子どもを生み私がその子、孫をこの手に抱く日が来てもなお、この問題は続くと思っています。こんな風に感じている親は沢山いると思います。

 静かに長い闘いを決意しながら粛々と日々を過ごしていきたいと思います。

野口 時子(のぐち ときこ) プロフィール

 岩手県花巻市出身、只今中学3年生のダウン症の息子と福島県郡山市に2人で住んでいます。夫は仙台市内に単身赴任中、20歳の娘は岐阜高専4年生。岐阜県内で一人暮らしです。2011年の原発事故があるまで福島県原子力発電所があるとは知らなかったです。『無知は大罪』このままでは子ども達の未来が守れない!と猛省しました。2011年6月に6人の母親たちと放射能から子どもを守るため『3a!郡山(安心・安全・アクションin郡山)』を設立しました。2年前に発展的解消という形をとり、拠点を持たずに情報はメーリングで発信することをしております。現在は『NPO法人真善美(しんぜんび)』で障害者と地域の皆さんとの共生社会を目指し頑張っております。