◎8月9日(日曜日)は長崎に原爆が落とされて75年を迎える日。私は前日に放送されたETV特集「”焼き場に立つ少年”を探して」の録画を見ていました。途中、式典が中継されているはずとテレビ中継に。既に始まっていました。毎年、広島よりも長崎市長のスピーチの方が平和への道筋が分かり易く明快。ことしも田上市長のスピーチでは核兵器禁止条約に1日も早く署名・批准をと日本政府に迫りました。
一方、安倍首相の挨拶文は使いまわしだったことがネットで噂に。広島と同じく「非核三原則を堅持しつつ、立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促す」と。核兵器に対する日本の立場を明確にしないで、どうやって立場の異なる国々の橋渡しができるというのか・・・相変わらず何もしないことの言い訳にもならない。「あなたはどこの国の首相ですか?」と今年も問われるべきです。
🔲「”焼き場に立つ少年 ”をさがして」
原爆投下後の長崎を訪れた米軍カメラマン、ジョー・オダネルが撮影した「焼き場に立つ少年」。近年ローマ教皇によって取り上げられたことで世界から注目を集める写真だ。しかし撮影から75年経つにも関わらずその撮影日時や場所は謎に包まれたまま。番組では米軍が戦後九州で撮影した約4千枚の写真を主な手がかりに写真を多角的に分析。原爆孤児らの証言をひもときながら「焼き場に立つ少年」が生きたはずの戦後の日々を見つめる
ローマ法王に取り上げられて世界中に知れ渡ることになった写真ですが、番組では改めてこの写真を徹底的に調べて、この写真が写された日時、場所を特定。そして写真をカラー化することで見えてきた少年の瞳の中の灰色の部分や鼻栓から、放射線による骨髄障害から出血を起こしている可能性が高いこと、放射線量は1グレイ(約0.8シーベルト)で、長崎だと爆心地から1.5キロ辺り、しかし、この少年の場合は残留放射線が蓄積したと考える方が妥当であり、鼻出血が起きるまで30日ぐらいとして、被爆から2か月くらいと判断されます。オダネル氏の妻である日本人女性の証言も。
そして今回、写真では、負んぶ紐の下になっていますが少年の名札の位置が左になっているので写真が焼かれたときに反転していることが分かりました。国民小学校では名札は右胸に縫い付けることになっていました。
番組では、この焼き場の少年と同じような境遇にあった戦災孤児がこの写真を見て語ります。 唇をかみしめて気を付けの姿勢で悲しみや苦しみを我慢している少年の姿に、どの戦災孤児、被爆孤児も同じような境遇だったと、そして「いかに惨めなことだと思います、戦争というものは」と語るのは、兄と共に引き取られた孤児院・向陽寮で育った錢田常雄(81)さん。親戚の家を渡り歩いた木口久(80)さんは、亡くなった親の悪口を言われるのが一番嫌だったと。
7歳上の優しい姉は母親の悪口に傷つき、鬱になって自殺のような死に方で19歳で死んだ、話したくないとも。焼き場の少年の写真を見て、「非常に戦争の悲惨さが伝わってくる。親が死んだかどうかして代わりに(火葬を)やっているわけでしょ。悔しさ、悲しさ、とかを一生懸命我慢している、それがなんとなく伝わる。この写真はあらゆる写真の中で一番戦争の悲惨さを伝えている」。
写真家のオダネル氏が休みの日に公務の担当地域外であった長崎まで出かけてこの少年の写真を撮ったのは、10月半ばごろであったことも分かりました。
2003年7月7日収録のインタビューのオダネル氏
ーーアメリカ人として原爆投下直後に街を歩いてどう思ったか?
オダネル氏「(原爆は)間違い(wrong) だと思った。」
ーー「原爆がアメリカ人や日本人の多くを救った」という人々に言いたいことは?
オダネル氏「(原爆は)何も救わ(save)なかった.。
罪のない人々を殺しただけ。
私の考えに同意しない人がいるのは分かっている。
でも 我々はお婆さんやお爺さん 子供を殺した。」
ーー無意味な虐殺だったと?
オダネル氏「そうだ。」
(オダネル氏が焼き場でこの少年に出会った時の文章はコチラで:)