トレリスに絡んで咲くピンクのクレマチス(和名テッセン/鉄線)
紫色のクレマチスは随分前に咲き終わりましたが、ピンクが今花盛りです。
室内では白とピンクののデンドロビウムがまだ咲いています。
随分暖かくなって、というか夏日もあるようになって、隣の実家の片づけを再開しました。折りたたみの座り机が着いた書棚には、父の写真のアルバムや母の俳句集などが置いてあり真ん中に引き出しが二つ付いています。一番下には社史とか重たい本が詰まっています。思い切って”処分するぞ~”と気合を入れて取り掛かりました。
母の恩師の伊丹三樹彦氏の写俳集やお仲間の方たちのもあって迷いましたが、二度と手にすることはないと思えるものは思い切って捨てることに。父が亡くなってから日赤のパンフレットみたいなのに父の名前が出ていると母が驚いていたものもありました。母には何も言わず個人でかなりの額を日本赤十字に寄付していたらしく、確かに父の名前が載っていました。若い頃から大事なことでも言ってもらえなかったと母が言っていましたが、度が過ぎるほど寡黙な父でしたから、父らしいと言えば父らしい。これも捨てることに。写真を見たら片付いていないのにがっくりです。もっと処分しないといけないみたいです。
引き出しの一つは母用だったらしく、簡単に整理できました。父の方も文具が主で大したものは入っていないと思っていたら一番奥に葉書大のスケッチブックがありました。すっかり古びて濃いセピア色に変色しています。
昭和19(1944)年4月に私が生まれ、その直後に豊中岡町の借家住まいだった父に赤紙が来て生まれたばかりの私を連れてまた本籍地の実家へ戻りそこで出征。父は東京で皇居防衛に当たっていたそうですが、その後、外地へ行く命令が出て、身体検査のレントゲンで肋膜に影があったため熱海の国立療養所に入って20年の敗戦を迎えました。この画帳の日付は敗戦の年、昭和20年の8月以前から始まって21年の9月までです。
以前にも、父の画帳を見たことがありましたが、どうも私が見た父の画帳は、もう一回り小ぶりのもので、熱海から本籍地の石川県加賀市の国立療養所に移ってからのものだと聞かされていましたので、人物画が入っているこの画帳は初めて見るもののようです。この頃の父は27,8歳。ストレプトマイシンが投与されて治るまで隔離病棟での療養生活だったようですが、絵を描いたり俳句を詠んだりしていたようです。
末の妹の叔母さんの話では、肺病(結核)ということで女学校や近所で嫌な思いをさせられたようでした。当時は伝染性の不治の病ということで忌み嫌われていました。この病気の後遺症というか、箕面に引っ越してからのことでしたが、私が小学校の頃、母がよく言っていました、『お父さんの天気予報は当たる。お天気が悪くなると寝苦しいので明日の天気が分かる』。
この画帳の一番最初の頁には生まれて1年1か月の私らしき子どもの絵があり、また中には父の自画像もあります。いつ石川県に移ったか、退院は何時頃だったのか母に確かめてみるつもりです。(PS:昭和20年3月頃に熱海から片山津に転院したそうです)
記録のために一部を写真に撮っておきました。
(鉛筆でタイトルと日付のあるものは下に書き移すことに)
↑昭和20年5月21日 20.5.29
↑(半夏)5.31 カタカナ判読不能(小町草)5.21
↑ イチヤク草 20.10.7
20.12.3 自画像
↑ 21.4.23 エニシダ 21.5.15
↑右上漢字で21年7月13日リアトリスの花 21.7.19
↑ 21.4.27
21.8.29 21.9.27 甘草の花
<昭和20(1945)年5月から翌年の9月までのスケッチ32枚のうちより>
PS : 外地へ行くため(あるいは将校試験の為だったか?)の身体検査に合格した同期の方たちについて100歳を過ぎた父に尋ねてみたことがありましたが、「みんな死んだ」と即答でした。現地へ行くまでの船で攻撃を受けてダメだったようです。父があんなに我慢強かった(辛いとか痛いと言ったことがなかった)のは・・・とか、生死について一切話さなかった、生きたいとも死にたいとも一切言わず淡々と生かされていることを生きていたという感じだったのも・・・こういうことがあったからでは・・・と後付けで遺された娘の想うことですが。
◎後日母から届いた手紙には詳しく経過が書かれていました:
思わぬ出会いと母からの手紙「召集令状から国立療養所入院まで」 - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com)