◎お茶のみ友だちのSさんから毎月借りて読んでいる「ハルメク」の11月号には、弁護士の大谷恭子さんの記事が、12月号には、「毎日はじめまして」というコラムを担当している村木厚子さんの「5人の怒れるおじさんとおばさん」という記事が掲載されていました。それに手元に朝日新聞11月2日の夕刊の切り抜き「村木厚子さんに聞く(3)『恋と革命』女性として貫いた」と題する連載「寂聴 愛された日々」の記事も。
村木厚子さんは郵便不正事件で逮捕され5か月間の勾留を経験されています。ハルメクのコラムの「5人の怒れる人」の5人のメンバーの一人は、冤罪事件を描いた映画「それでもボクはやっていない(2007年)」の周防正行監督です。郵便不正事件とその後の活動についてはコチラのNHKスイッチインタビューの記事で:
「SWITCHインタビュー達人達 選 ”村木厚子X今野敏”(後半)」(郵政不正事件から少女の”居場所”づくりへ) - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com)
弁護士の大谷恭子さんの名前を知ったのは、永山則夫の記事でした。「永山則夫 100時間の告白」を見て - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com)
◎村木厚子さんと大谷恭子さんの共通人物は瀬戸内寂聴さんです。どちらも寂聴さんについて書いておられ、そしてどちらも「若草プロジェクト」「まちなか保健室」について書いておられます。
●先ず、村木厚子さんの記事から
「恋と革命」女性として貫いた
―――寂聴さんの思い出深いエピソードは何ですか。
若草プロジェクトのシンポジウムや研修会を東京で開くときは、寂聴さんがビデオメッセージを寄せてくださいました。そのなかで「女に生まれて残念だったと思わないでほしい」「女に生まれたからこそ、戦う場所を与えられたんだと思ってがんばってほしい」とおっしゃったんです。
この言葉を聞いたとき、寂聴さんは大変な時代を生き抜いてきたんだなあ、女性として戦わなければならない時代だったんなあと実感しました。
このとき、寂聴さんは数えで99歳でした。「99歳まで生きようと思ったら、まだ時間がいっぱいあります。貴方たちが力を合わせたら、もっとマシな世の中になります。あなたたちが変えてください」と期待を寄せてくださいました。
―――戦い続けた女性について、もう少し教えてください。
「青春は恋と革命」と書かれたTシャツを頂いたことがあります。寂聴さんがよく使っていた言葉ですよね。革命は、社会を変えることです。寂聴さんは世の中に理不尽さを感じ、変えなければと常に意識してきたと思います。
女性であることの意味や、女性であるがゆえの制約は時代時代で変わってきました。その変化を寂聴さんは、ずっと見てこられました。女性であるがゆえのハンディが変わらない部分と、努力することで変わってきた部分、その両方を感じてきたと思います。
みんなが声を上げれば世の中は変わります。ただ、その事を実感を持って語れるのは、長い時代を生きて世の中の変化を実感してきた人だけだと思います。寂聴さんは世の中が変わることを知っているからこそ、あなた達に託す、がんばりなさいよと言ってくれた気がします。すごく重たいなあと思っています。
そのがんばりなさいよが、革命だと命を賭けなければならないような気がしますが、寂聴さんは肩の力を抜きながら、やれることをしっかりやりなさいよと言ってくれました。ありがたいですよね。
―――「青春は恋と革命」という言葉をどう受け止めていますか。
恋と革命ですからね。私とは対極にあります。私は恋多き女ではありませんし、革命とは正反対の役人の仕事を37年半も続けてきました。だからこそ、恋と革命に生きた人に興味がありました。
寂聴さんの話を聞き、これかあと思ったことがあります。小説家で劇作家の井上ひさしさんに「むずかしいことをやさしく やさしいことをおもしろく おもしろいことをふかく ふかいことをゆかいに」という言葉があります。色々な引用がありますが、私のなかではこの言葉なんですね。この通りに生きていたのが寂聴さんだと思います。
私たちは、難しいことをやさしくぐらいまでは努力できますが、やさしいことをおもしろくとか、深いことを愉快にというところまではいけませんよね。寂聴さんはそれを実践されていますから、法話を聞いていると元気が出ます。
若草プロジェクトでも、女の子の居場所となる「まちなか保健室(東京都千代田区)に寂聴さんの言葉や、真ん丸の顔の絵が飾ってあります。その額は入り口にかかっていますが、「ようこそ」と書いてくださったんです。(後略 / つづきは、写真↑の記事最下段に)
●「ハルメク」11月号より、大谷恭子さん
初めて瀬戸内寂聴先生にお会いしたのは、私が弁護士になりたてだった1984年。連合赤軍事件の永田洋子(ひろこ)さんの控訴審の情状証人を瀬戸内先生にお願いするために寂庵を訪ねた時です。83年の東京地裁での一審で永田さんの犯行は、「猜疑心、嫉妬心、敵愾心」「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」によるものとし、死刑判決を下されました。この判決は当時の世論を代弁したようなもので、裁判においても女性に対する偏見が強くありました。
私はこの判決理由に納得がいかなかったのです。瀬戸内先生は、女性蔑視がある実情を理解しておられ、「女性が一人で戦うのは本当に大変。でも、独りぼっちの女性は絶対に応援するわ」と、すぐに引き受けてくれました。証言の日、先生は、革命や大きく時代が変化しようとするときに陥る過ちに触れ、その時代の責任について語ってくれました。また命を落とした人への丁寧な思いも伝えて下さり、それでもなお、人が人の命を奪ってはいけないこと、国家もまた人の命を奪うことはできないと明確に死刑反対の立場を宣言してくれました。
凄惨な連合赤軍事件の長い裁判の中でこの証言は、唯一最大の華だったと私は思っています。その後、私は重大な事件の弁護を引き受けるたび先生に支えてもらいました。「幾百人の人が敵になっても被告人から絶対に離れるんじゃないよ。大谷のことは私が支えるから」と、言ってくれた先生の言葉は何よりも心強い、私の弁護士活動の原点になっています。その後も先生の支えを後ろ盾に弁護活動をしてきました。死刑を避けられなかった重罪事件で、先生にお経をあげてほしいと言うと、「お経はいらないわ。祈りましょう」と言って私の手を握りしめてくれました。
若草プロジェクトは瀬戸内寂聴さんからの宿題
先生は90歳を超え、終活の話をするようになりました。「何か女性のために出来ることはないかしら」と言うので調べると、貧困、虐待、性的搾取などで生きづらさを抱えた少女や若年女性が増えていることがわかりました。私はこの話を瀬戸内先生にし、当事者の少女を寂庵に連れていきました。先生は少女の話をよくよく聞いてくれ、隙間なくリストカットの後が刻まれた腕をさすりながら「よく生きてきたね、よくがんばったね」と少女の苦しみを労わってくださいました。
こうした少女・若年女性を支援しようと、私たちは「若草プロジェクト」を立ち上げました。気軽に寄れる居場所「まちなか保健室」や緊急避難先の設置、LINE相談など、支援が必要な人とつながる取り組みの他、支援する側もつながるための研修会などをしています。寂庵のお堂で開催させていただいた研修会で先生は「女の子たちのためにがんばれ」と励ましてくれました。私は、先生が私にしてくれたように、社会で孤立する女性にこう伝えたいと思います。「あなたは一人じゃない。支える人も一人にしない」と。
◎瀬戸内寂聴さんは、今年6月に亡くなった母が生前、自分より一つ年下で頑張っておられるといつも話題にしていました。大正11年生まれということですね。
先日、スターサンズの河村光庸プロデューサーを取り上げましたが、自分が志した仕事を若い世代にバトンタッチして逝けるということはとても幸せなことだと思います。
沢木耕太郎の小説「春に散る」、今年公開された映画では、佐藤浩市さんが演じたアメリカで実業家として成功している元ボクサーが余命宣告を受けて日本に帰国、若い頃全盛期を共にした仲間に連絡を取り探し出してシェアハウスで老後をと思っていたところ、世界チャンピオンを目指す若きボクサーに出会って、教えを乞われ、もう一度二人三脚で世界を目指し、経験の全てを伝え、結果を残して息絶えるという。.これも幸せだろうなぁと思います。
「若草プロジェクト」を立ち上げた、村木さんと大谷さんのお二人も寂聴さんの生き方を引き継いで若い世代を守り育てることに力を尽くしておられます。寂聴さんはそんな種をあちらこちらに撒いて逝かれたことでしょう。80歳が目の前、70代も最後となると、やはり、継承ということが気になり始めますね。そういえば、母が元気な間は自分で炊いたことのない大豆を煮るようになりました。お豆さんの煮もの、継承してます。
生涯学習センターホールのクリスマスツリー