永井博士の孫 初の海外講演『被曝した祖父の「愛」』届く(朝日新聞12/2)

◎先日お茶友さんから頂いたカニシャボテンの鉢。来年の干支は龍。何年か前、もっと大勢のお茶飲み友達が集まった頃のこと。辰年生まれが揃ってました。今は亡き父を最高齢に、次がNさん(故人)、その下が今は山口県の山中住まいのWさん、その下が今も週一くらいで会っているお茶友のSさんでした。

Nさんは園芸趣味があってお花を育てるのがとても上手。カニシャボテンを分けて頂いたことがあって、我が家のは、数年前に数えきれないほどの花をつけた後、息絶えてしまいました。写真の鉢は、SさんがNさんからもらった株を大事に増やしたもの。可愛い小さな蕾が見えます。

◎捨てきれずに取っていた新聞切り抜きから、まず12月2日の記事。

永井博士と言えば思い出すのは「いとし子よ」です。

「いとし子よ」永井隆 - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com)

永井博士の被爆体験をアメリカで英語で伝えるキャラバンツアーで講演をする、博士の孫にあたる徳三郎さん(57)を取り上げています。「いとし子よ」では二人の子どもたちに「母を奪ったのは原爆ではなくて、戦争だ」と言い聞かせていました。その子どもの一人、誠一さんの子、が徳三郎さんです。

途中から書き移しです:

 徳三郎さんは祖父には会ったことがない。永井博士の長男で、被爆時10歳だった父の誠一さんにも原爆の話を聞いたことがなかった。

 20年ほど前、父に頼まれ、祖父の足跡を展示する永井隆記念館(長崎市上野町)の職員になった。その後、誠一さんが66歳で亡くなり、館長を任されることになった。

 「戦争も、原爆も、永井隆も知らない自分に何が出来るのか」

 葛藤する一方で、祖父を知る被爆者らが次々に亡くなっていくのを目の当たりにした。できる範囲で「永井隆」を伝えたいと思い、祖父が書き残した書籍を何度も読んだ。

 今回のツアーは、被爆者で医師の朝長万左男さん(80)から誘われて参加した。海外での講演は初めてだった。

 徳三郎さんは、ツアー中の講演で祖父の著書「花咲く丘」からこんな一節を引用

した。

 あの美しかった長崎を、こんな灰の丘に変えたのはだれか? 私たちだ。おろかな戦争を引き起こした私たち自身なのだ。

 「我々も被害を受けたが、(日本に)悪いところもあった。足りない部分を認め、手を取り合うというのが彼(永井博士)の訴えだった」

 聴衆の受け止めは好意的だった。聖書の一節「己の如く隣人を愛せよ」と言う言葉から、永井博士が遺訓とした「如己(にょこ)愛人(あいじん)」と言う言葉を説明すると、多くが深くうなずいた。

 永井博士は原爆の慰霊祭での弔辞で「原爆は神の摂理」と述べたことがある。犠牲となった信徒は選ばれて神に捧げられた、いけにえだと。

 いま、徳三郎さんはこう思っている。「年を追うごとに色々な思いがあるが、慰めの言葉だったのだろう。前を向いて歩いていけるようなパワーを少しでも、と言うような気持ちだったのではないでしょうか」

 帰国の途に就いた徳三郎さんは「『人間愛』は、世界共通だったと感じた。特別な経験になりました」。記念館に来た海外の人たちにも祖父の体験を積極的に伝えていきたいという。               (寺島笑花=シカゴ、小川崇)