「いとし子よ」永井隆


土曜日、NHK思い出のメロディー」、司会の仲間由紀恵さんが藤山一郎が歌った「長崎の鐘」を紹介するのに、長崎を訪ね歩く映像が流れました。その中で永井隆さんが紹介されました。被爆して6年後に二人の子供を残して亡くなった永井さんの著書「長崎の鐘」は歌になりました。
「永井 隆(ながい たかし、1908年(明治41年)2月3日 - 1951年(昭和26年)5月1日)は、日本の医学博士、随筆家。(Wikipedia)」
その永井隆さんが残した詩「いとし子よ」は戦争放棄憲法九条が危機にある今の状況を予言したような内容です。(色字・太字by蛙)

いとし子よ
永井隆(1949年10月)



「いとし子よ。
あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一(まこと)よ、カヤノよ。
お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。
そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?――原子爆弾
・・・いいえ。それは原子の塊である。そなたの母を殺すために原子が浦上へやって来たわけではない。
そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。」


「戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだ
ころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。そう
して、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、――戦争はもうこりごりだ。これ
っきり戦争を永久にやめることにしよう!
そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくな
ってくるのである。どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?」


私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。…
わが子よ!
憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、
日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねば
ならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ
。これこそ、戦争の惨禍に目
覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。」


「しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである
日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、
と叫ぶ声が出ないとも限らない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、
世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。」


「もしも日本が再武装するような事態になったら、そのときこそ…誠一よ、カヤノよ
たとい最後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、

きっぱりと◆戦争絶対反対◆を叫び続け、叫び通しておくれ!

たとい卑怯者とさげすまされ、裏切り者とたたかれても

◆戦争絶対反対◆の叫びを守っておくれ!」


「敵が攻め寄せたとき、武器がなかったら、みすみす皆殺しにされてしまうではないか?――という人が多
いだろう。しかし、武器を持っている方が果たして生き残るであろうか?
武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?」・・・


「狼は鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。ところがハトは、何ひとつ武器を持っ
ていない。そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。・・・
愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。」


「いとし子よ。
敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。
愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。


 (引用元:http://peacecafe.tea-nifty.com/forum/files/100429itoshigoyo.pdf)

   永井隆博士の功績


 永井隆博士は、助教授をつとめる長崎医科大学付属病院で被爆した。
 自らも重い傷を負ったその直後から、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組んだ。
 やがて、彼の思いは医師としての役割から、長崎の町と文化の復興、そして平和の願いへと広がっていく。
 被爆以前から患っていた白血病が次第に悪化するが、病床についてからも、執筆活動を通して その実践を貫いた。
 被爆から6年の命だったが永井隆博士の足跡からは、平和への切実な祈りが聞こえてくる。  

(原爆被爆後、半年間、喪に服し、「平和」と「復興」を「祈り」の中で求め続けていた。)


   (引用元:http://base.mng.nias.ac.jp/k15/Nagai.html)