初秋の芦原公園

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昨日はヨーガの休み明け初日でしたが、私は行けずに三度目の診察を受けにクリニックへ。前々回の血液検査で貧血が出ていることがわかりショックでした。胃がんの後遺症で貧血が長く続いたのですが、50代中ごろから改善され、貧血は治ったと思っていました。それに、先日、夕食時、母に体重はどのくらい?と聞かれて、そういえばしばらく測っていないと思ってすぐ体重計で測ると、これまたびっくり40キロを切って3キロも減っていました。

先生も薬を処方して10日で全く変化なしはおかしいと白血球を調べたいから血液検査をと言われて10分後に結果を。白血球数も炎症を示す数値も特に異常なしということで、あと5日分、のどの痛み止めと解熱剤とトローチを薬局でもらって帰ることに。

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体重は4月ごろから記憶がないので、母の入院とその後の参院選?(ブログ)で勝手に無理していたのかな・・・と。白い水引草を置いていった友達みたいに(水引草の思い出 - 四丁目でCan蛙~日々是好日~)、親を見送った後、力尽きて逝くのは余りにかわいそうと思っていましたが、今となっては、それもいいかもしれないなんて(夫には悪いけど)思わないでもなかったのですが、母親より先に逝くことだけは避けないといけませんので、早く平熱に戻したいのですが…もう少しかかかりそうです。

お薬をもらった帰り、芦原池の道を辿ることに。↑芦原沼の工事が進んで数日前の大雨で道路側が池になっていました。↓公園入口の左手にある萩の花がもう色づいています。

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 昨年、一昨年の台風21号で池の周りの木々も随分ダメージを受けました。

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それでも大木の並木は何とか生き残っています。

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残暑お見舞い申し上げます

一週間以上お休みしてしまいました。無事、一周忌の法要を終えました。妹夫婦たちや姪っ子ファミリーや従弟たち、息子やその従妹たちとも再会を果たして、母も元気でこの日を迎えることが出来、とても喜んでいました。京都の東山浄苑の施設で一周忌の法要をして、実家のお墓と仏壇がセットになった前でもお経をあげてもらいました。母が、娘三人を嫁がせた後、絶える家の仏壇とお墓を残すわけにはいかないと、売り出されてすぐに買ったものです。石川県から来た従弟たちは関心と感心?の初体験だったようです。

沖縄の次男は仕事で出席できずでしたが、東京の長男が前日から泊まって、翌日7時の会議に間に合うように帰りたいというので、終わった後、同じく日帰りの姪と一緒にタクシーで京都駅へ。この姪と息子は30年ぶりぐらいに会って話したとかで、「おじいちゃんがいとこ同士の再会を作ってくれたんだなあ」と言ってたよと息子がメールをくれました。嬉しかったです。

年とともに、冠婚葬祭の不幸の方でしか姉妹も従弟同士も会うことが出来ません。その点、父が元気なころ、30年近くも、毎年のように私たち姉妹夫婦と、父がゴルフをしなくなってからはピンチヒッターに小松のプリンス(新天皇と同い年の従弟)を加えて、ゴルフ会をして、その間、ゴルフをしない者は観光をして共に過ごした機会を作ってくれたことに感謝です。父の最大のプレゼントだったと思います。お陰様で遠く離れた妹夫婦たちとも懇意になれています。

京都で石川県から来た従弟たちとも別れて、姪っ子ファミリーと駅向こうの従弟夫婦と我が家の3台の車で妹夫婦と姪を乗せて箕面の風の杜へ。偲ぶ会と称して食事会をすることに。この時のために、夫が遺品整理の時に見つけた父が描いた若いころの母の肖像画と父の写真と母の俳句を収めた写俳集と、百寿の会に向けて作ったアルバムや毎年のゴルフ会の旅行のアルバムを持参しました。

母はサービス精神旺盛で3組の娘夫婦のそれぞれのなれそめや、甥夫婦の恋愛時代のエピソードを披露して、大盛り上がりでした。

翌日は風の杜を引き上げて、姪っ子ファミリーと姪は滝へ行ったり竜安寺へ寄ったり、あとは我が家でお茶飲み話。お昼には12名そろって食事をして、それぞれ帰路についたり寄り道したり。写真はこの日のために3枚のガラス戸を外してテーブルをくっつけた時のもの。

翌日から、私はのどの痛みと声が出なくなり、代わりに熱が出始めました。置き薬の漢方薬を飲んでも治らないので、月曜日はお医者さんへ。午後からのお茶の稽古はお休みしました。今日は母の付き添いで皮膚科へタクシーで。夫はお盆の立山行きが台風で9月に延期。親せきが帰った後、準備して、25日の早朝、四万十川カヤック川下りにグループで出発。雨のため予定を1日早めて今晩戻ると連絡があったところです。

平熱に戻れば、またブログを書き始めたいと思っています。

8月15日と『戦争神社』、「森友文書改ざん人物が駐英公使」と「アルキメデスの大戦」(菅田&舘ひろし)

◎昨日土曜、「報道特集」の番組を見ながら、母が戦争直後の話をし始めました。父は熱海の国立療養所から、敗戦をきっかけに本籍地の石川県の国立療養所に移されました。大阪の借家はそのままにして母は乳飲み子の私を連れて実家や隣村の叔父さんの家の農繁期の家事の手伝いをしたり、着物を農家の人に売ったりしていました。私はヤギのお乳で育ったとか。

父が退院して豊中の岡町の借家に戻ってから妹二人が生まれました。父が勤務していた製薬会社からは給料の代わりにサッカリンが支給され、それをお金やお米や必要なものに変えなければならなかったそうです。母は小さな子が3人もいた為、それに実家が農家だったのでお米には困らなくて、誰かに貰ってもらったとか。

母の実家は長女が跡取りだったので居候をしていてもまだよかったが、近所の農家はお嫁さんに気を使って、大聖寺の嫁ぎ先から娘が帰っても、その場で渡せず、田んぼの畔のところに米袋が置いてあるから帰りにそれを持って帰るようにとこっそり耳打ちしている家もあったそうです。戦後のものの無い時代の話です。

父が肋膜で入院しているとき、母は、もし二人になったら、この子を先生にでもして生きていかなければと覚悟したこともあったとか。その父が102歳まで静かに生きたのは、敗戦一年前に船で台湾を目指して誰も帰ってこなかった戦友たちの分まで生きたのかもしれません。

報道特集」では500人の戦災孤児を育てたという106歳のとむさんのお話や85歳で戦争中の絵を描き続けている方のお話を三人で聞きながら、私も年のせいか涙もろくなって一言も話せないで画面を見ているだけでした。みんな命からがら生き延びてきた…戦争だけはやったらあかんという母の言葉が画面にダブります。

日韓の若者の交流を見ながら、新しい関係を若い人たちの間で築くことができれば本当に良いのに・・・それにしても自ら起こした戦争の加害や被害の実態について学校で教えようとしない日本の教育は本当におかしなことです。あの戦争を反省していない人たちが政治のトップにいる間はダメなんですね。個人で独自に調べるしかないと日本人の学生が言っていましたが、頑張ってください。

◆日本の戦死者260万人のうち6割が餓死だと言われています。戦闘ではなくて食べ物がなくて飢え死にしたというのです。こんなバカなことがあったのです。

想田和弘 Retweeted

shirley @himemiko777 Aug 15

私の曾祖父は満州帰りの衛生兵だった。怪我した人を手にかけたかもしれないし、慰安婦の検査や管理をしたかもしれない。他人事じゃない。

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想田和弘Q @KazuhiroSoda · Aug 15

今日は敗戦記念日。「戦死」した方々を「命を捧げて日本を守った英霊」として称揚する人が多いが、彼らの6割は日本政府の兵站無視の無策と精神論によって、餓死させられたのである負傷兵は自殺を強要された。→飢餓、自殺強要、私的制裁--戦闘どころではなかった旧日本軍
内田樹 Retweeted

ゆきのちゃん @t2PrW6hArJWQR5S· Aug 15

戦没軍人の約60 %が餓死だと言われてんだよね。だから本当に悼む気持ちがあるのなら、兵隊のコスプレなんてやってないで断食しろや、って話だよ。こんな連中が跋扈してんだから、戦没者だって浮かばれないよね

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Al Jazeera News @AJENews · Aug 15

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http://Japan's Abe skips Yasukuni shrine visit but sends offering | News | Al Jazeera

靖国神社はフランスでは「war shrine(戦争神社)」と表記しています:

山崎 雅弘

@mas__yamazaki 8月15日

フランスのAFP通信は靖国神社を“Tokyo war shrine(東京戦争神社)”と表記テレビ局のフランス24も“Yasukuni war shrine靖国戦争神社)”と表記。

大日本帝国の思考を無自覚に継承する人は「誤解だ」と思うかもしれないが、誤解じゃない。歴史的に見れば、これが本質

靖国神社は宗教法人で宗教施設。それなのに、政治家は、今では集団でこれ見よがしの参拝風景。慣れてはいけないですね:

山崎 雅弘 @mas__yamazaki 8月15日
ロイター通信もこの写真伊勢志摩サミットの時も、海外メディアは「安倍政権と神社本庁日本会議などの国家神道思想を継承する勢力との繋がり」という本質部分に光を当てていた。一方、日本のメディアは政府発表など表面的な話を垂れ流しで報じただけ。本質に踏み込まない
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Reuters Top News @Reuters  Aug 15

Japan PM Abe sends offering to Yasukuni shrine for war dead: Kyodo - Reuters

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◆境内を軍服のコスプレで闊歩する人たち。神社側も 可愛い?戦争グッズを売り出しているそうです。「特別な1日」さんからコピーさせていただきました:

Sandar @SandarHax 8月15日

人間魚雷「回天」を、靖国神社とキューピーちゃんでコラボグッズにしているとは…衝撃すぎて声も出ない。

やはり「英霊」などと言う人たちのやることは異常すぎる。

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Mouming87 

@Tsuchiy3787

· Aug 14

Replying to @otfsx1228

こんなの売ってたんだ‥。 

 ◆昭和天皇は、A級戦犯靖国神社に合祀されたことから参拝を取りやめ、上皇さまは勿論参拝されていません。令和になって靖国神社が新天皇に参拝をお願いし断られたという記事が出ていました。靖国神社とは・・・

山崎 雅弘 @mas__yamazaki 8月15日

靖国神社は戦争で軍人が死ぬことを「避けるべき事態」とは考えないむしろ軍人が死ねば死ぬほど、靖国神社の権威が高まるそれゆえ「指導部の無能や無責任で死んだ軍人」と「死なせた指導者」を一緒に「英霊」と称して祀ることに抵抗がない戦没軍人の遺族こそ、その歪んだ図式に気づくべきだろう。

大日本帝国が指導部の無能や無責任で多くの軍人を死なせた事実を反省も批判もしない靖国神社は、戦没軍人の慰霊施設ではない「戦没軍人の慰霊」という大義名分を批判除けの盾として利用しながら、大日本帝国時代の精神文化を現代に継承する政治的宗教施設戦後の平和と繁栄とは本来相容れない存在。

 ◆前川さんも「宗教法人としても残すべきでなかった」、そして『英霊』とは: 

想田和弘 Retweeted

前川喜平(右傾化を深く憂慮する一市民)

@brahmslover 8月16日

戦後神社は国から切り離されて宗教法人になったが、靖国神社など明治以降国家神道の下で作られた神社は、宗教法人としても残すべきではなかった。靖国神社は廃止して九段公園にし、明治神宮も廃止して代々木公園にくっつければ良かったのだ。

 

想田和弘 Retweeted

井上 雅人 @INOUE_MASAHITO Aug 16

「英霊」は遺族を黙らせるためにある言葉だ。国家が英霊扱いするのだから文句は言うな、と言うわけだ。英霊への感謝を訴求する政治家は、国民が英霊に感謝しないと遺族が騒ぎ出して誰も国のために死ななくなるだろう、と言っているのだ。気安く英霊と言う言葉を口にする政治家だけは信用すべきでない。

◆森友事件関連で、またまた仰天人事です。 「 財務省が18年6月、改ざんの中核的な役割を担った人物と認定していた中村氏」が駐英公使に:

内田樹 Retweeted

たつみコータロー 前参議院議員 日本共産党

@kotarotatsumi 8月15日

中村氏は安倍明恵氏が記載された決裁文書を決裁した人物で彼が菅官房長官に森友事案について説明をした直後に改竄が開始。官邸と改竄との関係を知る重要人物谷さえ子氏同様海外へ。腐ってる。
内田樹 Retweeted

小西ひろゆき参議院議員) @konishihiroyuki 8月15日

ここまでめちゃくちゃとは。。

憲法と国会法に基づく国政調査権の発動を改ざん文書で妨害し欺いた公務員が、外交の実務責任者たる駐英公使にイギリス人は仰天し、深く日本国を軽蔑するだろう。

本来は懲戒免職で当たり前安倍・麻生氏が居座るために全てが崩壊していく。

 ◆日韓関係、メディアは煽っていませんか・・・

内田樹 Retweeted

中沢けい @kei_nakazawa 8月15日·

私もそう思う。

Quote Tweet

はな @hanakija38 8月15日

「朝から晩まで文在寅批判して、分析する暇あったら、安倍晋三の6年半の内政、外交の検証しろや!」と、老父が怒り心頭本当にその通りだと思う。いい加減にしろよ。日本メディア

映画「アルキメデスの大戦」の主演の菅田将暉さんの言葉です「誰もが知っている戦艦『大和』を通して日本人の性(さが)や戦争の愚かさを描くことに、僕は意義を感じました。当時の戦争を体験した方々が少なくなってきているなかで、この映画が忘れてはならない日本の歴史に触れるきっかけになってくれたら嬉しいです(「With」)」。この映画で山本五十六を演じる舘ひろし氏も発言しています:

 山崎 雅弘 Retweeted

 明日の自由を守る若手弁護士の会/あすわか

@asuno_jiyuu 8月15日

なぜ失敗したのかを検証しないんですね失敗したことに関して、傷口に塩を塗るなみたいな風潮がある。日本人にとって気分がいいのかもしれないけれど、それは戦争について真剣に考えていないんじゃないかと思うんだよね。」

慧眼!

◎午前中、夫と二人でこの映画を見てきます。21日の父の一周忌の法要が終わるまで、しばらくブログをお休みします。 

 

再稼働反対の金曜デモ(「特別な1日」さんより)

★昨日16日は、お盆の再稼働反対官邸前金曜抗議デモの日でした。いつものように「特別な1日」さんのブログを通してデモの様子を。今回のタイトルは:

★タイトル前の2つの話題について。まず一つは温暖化ガス排出量について:

温暖化ガスの排出は基本的にはアメリカと中国が悪いんですけど、近年EUでは対策が進んだ結果 省エネ大国と威張っていた日本の排出量は西側の先進国ではアメリカに次いで2位、無視できる量ではありません。こういうことが殆ど議論すらなされないのが、日本人は井の中の蛙たる所以なんでしょう。

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★2つ目は「れいわ新選組」の二人の国会議員との荻上チキ氏のラジオインタビューの記事から:

◆舩後議員の次の発言にはちょっと驚きました:

全ては教育にあり。私は、10年20年後に未来を創造して、代わる障害者に対する偏見を教育で変えたいと思います。さらに子供の頃から、潜在意識の領域、さらに深く無意識の領域にまで存在する「差別意識」を除外する倫理・道徳教育は必要と考えています。重度訪問介護の不備も喪失した人々の潜在意識の領域ならびに無意識の領域に重度障害者には生産性がないという確定した思いがあるからです。かと言ってその方々を責めているわけでは全くありません。大東亜戦争の日本が弱体化するために GHQ が導入した教育や文化が要因と考えていますが、具体的には掴みきれていません。

日本会議の代表委員の主催する講演会で講演を行ったりもされていたのですね。重度障害者ということで利用されたり利用したりということはあるでしょうから、これから議員個人としてもまた「れいわ」としても注目していかないといけませんね。

SPYBOYさんのと全体のまとめを引用です:「少子高齢化と日本の貧困化は確実にやってくる今のまま行くと更に、視野が狭くて貧乏な、役に立たない戯言と不満ばかり言っている脳無しのネトウヨ老人が大勢を占める国になるわけです。

★さて、ここからタイトルの『京都の旅(祇園編)』です。これはぜひ直接ブログを訪ねて、文章と写真で8月の京都のおいしい料理と老舗料亭の心意気を味わってください。

ということで、今週も官邸前へ #金曜官邸前抗議

今日の東京もまだまだ暑いし、ジメジメしている。それでも台風開けの強い風が心地よかった。午後6時の気温は30度。お盆休みの今日の参加者は100人ちょっとくらい?200はいないと思う😁。

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★ここで取り上げられたのは、

今週、朝日、日経と二誌に、原発安全対策費が膨れ上がっているというニュースが載りました。

地震津波などの新たな知見が増えたり、テロ対策費用の高まりで、原発の安全対策費は年々膨れ上がり、今や電力11社の合計でなんと5兆円を超えるそうです。13年当時と比べ4兆円も増えた。これだけ考えても原発が最も安い、という政府の強弁は破綻してます。

★★★今回も話題豊富なブログの内容を是非こちらで: 

https://spyboy.hatenablog.com/entry/2019/08/16/『京都の旅%EF%BC%88祇園編%EF%BC%89』と『0816再稼働反対%EF%BC%81首相官

のんさんと国防婦人会【かんさい熱視線『女たちの戦争』】

◎先日、大友良英さんがのん(能年玲奈)さんのテレビ界締め出しについて書いた新聞記事を紹介したところ(8月5日の蛙ブログ)ですが、「ついに”解禁”か」の記事が出ました:
その前に、のんさんが声の主役を演じた「この世界の片隅に」が3日、NHKテレビで、そして10日には『#あちこちのすずさん』が放送されました。
◎ところで、13日(火曜日)、NHKかんさい熱視線」では、のんさんをスタジオに招いて大阪が発祥の地だという「国防婦人会」を取り上げました。夫は出だしを見て、大阪はもともと維新みたいなものが生まれる素地があったんだ~と。国防婦人会が大阪発。のんさんのテレビ出演解禁も大阪から…となれば、それもいいですね。なかなか丁寧な取材でしたので、全文を書き起こしてみました:

8月13日(火) 午後7時30分

かんさい熱視線「女たちの戦争 国防婦人会の記録」

https://www4.nhk.or.jp/P2852/x/2019-08-13/21/45697/8207019/

戦時中、万歳や軍歌で出征兵士を送り出した「国防婦人会」。そのルーツは大阪に。
息子の戦死に涙を流さず、「ありがとう」と強がるしかなかった母。戦時中、2000万人を擁した婦人会の女性だ。女性活躍の舞台はどのようにして物言えぬ場となったのか。
戦時中、万歳や軍歌で出征兵士を送り出した「国防婦人会」。のちに2000万人に膨らむ会のルーツは大阪にあった。見送りの少ない兵士に同情した主婦が茶でもてなしたのだ。女性が活躍する場が少なかった時代、会の活動は女性の心をつかみ組織は急拡大。しかし戦争の激化とともに会は「思想統制」の傾向を強め、妻や母は愛する人の戦死を悲しむことさえできなくなっていく。新たな資料と証言から、女たちの“心の戦争”に迫る。  

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のん『この世界の片隅で』で、すずを演じたのんです。映画の中ですずさんは、たすきをかけて婦人会の活動に参加していました

ーー兵士の見送りやお見舞いに来ていた婦人会は、多いとき2000万人が所属していました。その始まりは大阪で生まれた国防婦人会です。住民の婦人たちの呼びかけで始まったボランティアでした。

 しかし、戦争が激しくなると会の女性たちは自由にものが言えなくなっていきました。女性たちに何があったのでしょうか。今日は新たに見つかった資料からひも解いていきます。

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ーー大阪、築港(ちっこう)。かつて、ここから多くの兵士たちが中国大陸へと出征していった。今も港近くに住む大場シズエさん(99)。大場さんは見送りに参加した一人です。「ほんとにね、ここへ来るといつも思います。大きな船が着いて、いっぱい兵隊が乗って行きはる。桟橋を渡っていくの。うちの子が今渡った、うちの子も渡ったって。みんな泣いとる人なんか全然いませなんだもんね。」

ーー1931年満州事変。日本は現代中国の東北部・満州へ軍事行動を開始します。その翌年、見送りもなく出征していく兵士を不憫に思った大阪の主婦たちが、かっぽう着姿で見送りに駆け付けました。それが、後に全国に広まる大日本国防婦人会のはじまりでした。

 今回、会の設立直後から熱心に活動した主婦の肉声が見つかりました。それは、研究者のインタビューに答えたもの。

大阪天王寺で分会長を務めた当時30代の片桐ヨシノさん「心からの国防婦人会でしょうね。私が行かなかったら誰が見送りしてあげるかしらと思ってね。お恥ずかしいですけど。」

ーー片桐さんが活動にのめりこんだ理由の一つに家庭での仕事の面での窮屈な関係があります。女性は結婚すると自由に家を空けることもままならなかったのです。

片桐「お姑さんは絶対頭が上がりませんので。お姑さんには私は絶対服従でございましたから

ーーしかし、婦人会の活動では、”お国のため”という大義名分があるため堂々と家を出ることができました。

片桐「夜の夜中も帰ってこないことがありました。毎日毎日、体が疲れて、明日はよう出ないと帰ってくる。目が明くと、やはり行ってあげなきゃいかん思って行くんですよ。来る日も来る日も、カラスの泣かん日があっても片桐さんの来ない日がないというぐらい行ったもんです。」

国防婦人会の歌↓

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伊藤「今日は、映画『この世界の片隅に』ですずの声を演じたのんさんに来ていただきました。戦中、どんなふうに思いましたか?」

のんそこに生きている人たちの懸命に生きているということは、すごく感じますね

ーー女性に参政権がなかった時代、社会進出の舞台として女性たちの心を捉えていきます。

母親が国防婦人会の役員をしていた久保三也子さん(90)役員になったら白いエプロンつけて襷(たすき)で行ってましたよ。それまで母親なんて出番がなかったもんそれまでは『女子ども』で一括

生まれて親に従え、嫁いでからは夫に従え、老いては子に従えって、私、だれを従わしたらええのかって思ったから、よう覚えてんねん。」

ーー女性が社会で活躍できる場として急速に広がっていった国防婦人会。しかし、その裏には婦人会を通して国民を統制し監視する役割として利用しようとする陸軍の動きがありました。今回、見つかった資料の中にある軍人(国防婦人会の後ろ盾となった人物)の証言です。その目的は、戦争による食料不足に女性が不満を持たないようにするというもの:

陸軍・石井嘉穂元中将米騒動になったら困る。兵隊の送り迎えは付属的な仕事。本当の問題は女性の思想教育だった。男子が兵隊に行っても女子で守れるようにしましょうという教育を始めた。

信州大学・大串潤児教授「国は女性の力を借りて、国の戦争への不満を封じこめようとした」と指摘。「経済的に疲弊していたので、そういうなかで戦争することで社会に様々な意味での反軍的な感情が起こらないだろうか。そういうのを(国防婦人会を通して)事前に察知してコントロールしていく意味では思想統制だった。

ーー生きがいを求める女性とそこに軍の思惑が絡まって国防婦人会は全国に広まり巨大な組織へと変貌していったのです

のん懸命に生きる姿は感じますね。自由が少ない中で毎日必死に営んでいた。私だって力強く歩みたいのよってなるのはわかりますね。」

グラフを指しながら、伊藤「満州事変の翌年、50人だったのが、太平洋戦争の前になって1000万人まで・・・何がここまで女性たちの心をひきつけたと思いますか?」

のん家を守ってる自分たちも何かしなきゃいけない。生きがいを見つけるのが大変な時代。すずさんの場合は絵を描いたりとか、自分の才能を生かすことができない時代ですよね。その中で、自分でも必死になれるものがあるということは心の拠り所になるんじゃないかと思いました。私も婦人会に入ってせっせと頑張って活動していたと思います。」

ーーその後、婦人会は中国との戦争、太平洋戦争と泥沼化していく中で婦人会の役割も変貌していきます。20歳以上のほとんどの主婦を取り込む。活躍していた女性たちのあり方も大きな変化が生まれていた。

 1937年、日中戦争の激化とともに国内では食料や生活必需品が不足していった。女性たちは「贅沢は敵」と言って国の政策に従わない女性を糾弾するようになった

三重県大台町 当時小学生だった梅本多鶴子さん(85)「ここですね。長い袖の着物、着てたらホンマに切るよって国防婦人会の女性が裁ちばさみを持ち振袖などの着物を着る女性を取り締まっていた。」「お偉方みたいな気がしましたね。村長さんとか偉い人と同じように国防婦人会の人に威厳がありましたね。そやから反対する人は誰もいなかった。」

ーー梅本さんの母親,いとのさんは地域の会の副会長を務めていた。夫が高齢で出征できないため肩身の狭い思いをするようになっていた。

梅本さんどこどこの息子さんが、どこへ出征したとか外地へいたとか、そういう話で持ち切りでしたから。あんたとこは行っとらんから大きな顔をしたらダメよと、そうなてきますよね。

子どもは娘ばかり三人、”息子がいれば戦争に行かせられたのに”が母の口癖。女の子ばかりでは人の前に出られへんなと言って、そういう全体的な雰囲気でした。 戦争に行って命を捨てるのが普通に思ってましたから。

親として戦争に一人でも出していたら一人前、女の子で戦争に誰もいかないのは半人前以下。はっきり言葉に出すのは女の人だから

戦争ですよ、やっぱり。心の戦争やったと思います。」

--当時の女性の生き方を研究する滋賀県立大学の京楽眞帆子教授の「戦争が激化する中で国にどれだけ貢献できたかが女性の価値であるかのような空気で覆われていた。」

人間の母であるだけでなくて国の母であることにこそ意義があるとみんなが同意してコンセンサスが取れてみんなが乗った。お国のため社会のためになると公共的な形になりますね。その方が上等なんだ、上なんだ、個人の活動より公共の活動のほうが上なんだ」(蛙の独り言ーー自民党改憲案の「自由」が「公共の福祉」で政府の思い通りに制限できるようになっている考え方の下地がここにある!)

 --太平洋戦争が始まると政府は主な婦人団体を在郷婦人団体に統合。生活の隅々までコントロールするようになります

久保三也子(90)さん「空襲があったときのバケツリレー、あれもみんな婦人会のもとにやった。大変や思いながら絶対外されへん。上から来たんはあの時代はそうだった。うちは嫌です言うたら村八分。それこそ、配給はもらわれへんし生きていかれへんからね。みんなそんなもんやと思って生活してるから。従順やってんね、みんな

ーー女性たちは家族の戦死に涙を流すことさえ許されなくなっていきました。猿木すずさん(87)は、日中戦争で父を、太平洋戦争で兄を亡くしました。家には国防婦人会の女性たちが慰問に現れ名誉の戦死とたたえました

父親のいない家族写真、そこには白いエプロン姿の国防婦人会の女性が写っています。夫を亡くし近所の女性の助けを得て、しかさんは周囲との関係を良好にしていくため婦人会の活動にのめりこんでいきました。

猿木すずさん「その頃は名誉の戦死してきたら誉れやったでな。お国のためや、それで日にち送らせてもろとった、自己主義なこと言うておられんだで。」 

 夫の死後、1年後、今度は息子の清一さんが戦死したと役場の人から知らせを受けた。その時、母が返した言葉をすずさんは忘れることができない。

涙一つこぼさんへん、『ありがとうございます』って言うた。『お手数かけましてありがとうございます』って後へ続く言葉が『私の息子も間に合いました(役に立ちました)ですか』て返事したもん。あぁ、この人、えらいもんやなと思った。」

ーーそして戦争末期、婦人会の女性たちは戦火にさらされることになります。国防婦人会が生まれた築港が戦争で被害を受けた。

母親が国防婦人会の熱心な会員だった久保三也子さん(90)全部焼けてました。こっち側には何にもないほど焼け野原やった

ーー生き残った母たちが命じられたのは遺体処理でした

上からの通達で自分らの町会で亡くなった者は自分らが処理せえ言われた。穴掘って埋めて、真っ黒の人はそのまま埋めたらしいけど、半焼けの人なんかもう一回燃やして、そしたら、その臭い煙がね、各町会でやってるでしょう、たまらんかった言うてはった。」

ーー空襲ですべてを失った女性たちは芋のツルさえ奪い合うようになっていた。

芋を掘ってたら向かい側の人が見てて茎を分けてくれ言うて来るの。母は、お芋は私のところで食べるから、茎はあの人らに分けてあげるって茎を置いていったら、取り合いよ,けんか腰よ。私、見ていて情けなかった。それだけ、ものがなかった」

ーー国防婦人会の女性たちは、その後どのように生きたのでしょうか?

夫と息子を戦争で亡くしながら「ありがとう」としか言えなかった猿木すず(87)さんの母しかさん戦後も夫や息子の死について語ることはありませんでした。しかし、一度だけ胸の内を垣間見せたことがあります。

終戦から30年余り、猿木さんが子どもを事故で亡くした時のこと、母のしかさんが突然戦死した息子のことを話し始めたのです。

「『あんたは抱いてかばね(亡きがら)で顔見られるだけでも幸せや。私らはこの中に紙屑入っとったようなもんや』言うて・・・子を亡くするっちゅうことはつらい

ーー戦争末期、わずかな食料を奪い合う女性の姿を目の当たりにした久保三也子さんは、90歳になる今も毎日、新聞に目を凝らします。戦後女性が手にした男女平等、政治に参加できる権利の重みをかみしめながら生きてきた。

日本もね、女子ども言わへんようになったなと思ったよ。そやから、もう、みんな一斉に行ったもんね、選挙に。

(当時)私ら、どうのこうの言われへんかったから、戦争 始まったんやなって思った。そやから、今度は始まる前に、始まらせないように頑張って、にらんでんねん

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のん家族の死を悲しめないということはすごく辛いことだと思うので・・・それを自分の中に押し込めて押し込めて 、この為なんだって心を支えているって本当に苦しいことなんだな~て思いますね。」

伊藤「こちら、日中戦争当時出版された週刊誌なんです。表紙の写真は、幼い子どもを抱えた母親が戦死した夫の墓参りをしている写真で説明書きにこうあります。「あなたの尊い犠牲が実を結びました」。戦時中のあるべき女性の姿が書かれている。(上に「内閣情報部編集10月9日十セン」(10銭?)」の文字)

のん「戦争のためとか、国のためとか,子どものためとか、決められたものの中でやってかなきゃいけないってのも、生き苦しく感じる人もいたんじゃないかな~っていう風に思いますね。」

伊藤「今でも、そんなもんでしょとか、言ってもしょうがないんじゃとか、流されたりとか、言いたいことが言えないとか、あったりしませんか?」

のん「今、こういうことを言っちゃいけないとか、世の中的にこういう考えを持ったらルールからはずれるんだろうなってことありますね。

気をもって言おうという気持ちを持つことは、すごく反発されるかもしれないけれど、それは大丈夫っていうか、言ってもいい世の中になってる気がしていて、自分が本当に伝えたいことは言えるような気がします

伊藤「のんさんは、この時代を描いた新たな作品を公開されるらしいですが、どんな?」

のん「この世界のさらにいくつもの片隅に」という作品に新たに関わって,30分、新たなシーンが加わって公開されます」(終わり)

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N国立花議員とマツコ・デラックスと「かくて自由は死せり」

今年は父の初盆。来週、新盆と一周忌を兼ねて、お墓と仏壇のある京都に集まり、その後箕面で偲ぶ会を予定していますので、昨日は母と三人で食卓の傍にある父の遺影に初盆のご挨拶?をしました。

お盆に向けて蛙ブログのアクセス数が選挙前と同じくらいになっています。検索でヒットして訪ねてくださる皆さん、読んでくださってありがとうございます。 今日は、「終戦(敗戦)の日」、NHKスペシャルの「こうして自由は死んだ~ある新聞と戦争への道~」とそっくりな道を辿り始めている今の日本について内田氏のツィッターから並べてみます:

内田樹  @levinassien 8月14日
治安維持法特高憲兵隊も存在しない日本で、市民たちの暗黙の(あるいは公然たる)同意の下に「言論の自由」が失われ得るというようなことがあり得るとしたら、それは日本の戦後民主主義にまったく指南力がなかったということを意味しています。古希に至ってそんなことを思い知らされるとは。

マツコ・デラックス さんの発言を執拗に攻撃するN国の立花参議院議員

内田樹 Retweeted

▼中村義彦 @UxCWDbueIa4Jd6q Aug 13

N国の立花とマツコの件、危機感を感じないとやばいよ

政治批判をした一個人(マツコ)に粘着攻撃し、物理的にも精神的に追い詰め、さらに仕事も奪う(番組降板やCM商品不買を推し進める)

これが許される社会ではもう誰も政治批判はできないカルト宗教?治安維持法?N国を面白がってる場合ではない

 

▼諸岡浩太郎 @memento_moreau Aug 13

マツコ・デラックスへの執拗な攻撃、ナチ党の突撃隊(エス・アー)を連想させる見せしめにマツコを徹底的に叩いて、N国党を批判しようとする人を怯えさせ、黙らせる。政見放送はあまりに下品で幼稚だった。こんな人が現職の国会議員で国政政党の党首だなんて本当に恐ろしい

◆山崎氏は、立花参院議員を蓑田胸喜(みのだむねき)に似ていると。蓑田というのは:

蓑田胸喜 みのだ-むねき
1894-1946 大正-昭和時代前期の国家主義者。
明治27年1月26日生まれ。慶大,国士舘専門学校の教授。熱烈な皇室中心主義をとなえ,大正14年三井甲之(こうし)と原理日本社を創設。京都帝大,東京帝大の自由主義的な学者を攻撃して滝川事件,天皇機関説事件の口火をきった。昭和21年1月30日自殺。53歳。熊本県出身。東京帝大卒。著作に「学術維新原理日本」など。

NHKスペシャルの「かくて自由は死んだ」でも取り上げられていました:

内田樹 Retweeted

山崎 雅弘 @mas__yamazaki 8月14日

弁舌の技術など違う点ももちろんあるが、この国会議員には蓑田胸喜と似た点を多く感じる。異常なほど粘着質あるいは病的な攻撃性は特に近い敵と見なす相手を潰すためならあらゆる手を使う。そして、標的を潰すために第三者的立場の個人や組織を巻き込む手法も蓑田と同じ

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ちだい(選挙ウォッチャー)@chidaisan ·8月14日

とうとう立花孝志が、マツコ・デラックスさんの出演する「5時に夢中」のスポンサーの不買運動を呼びかけ、「崎陽軒は買うな!」と言い出した。こいつ、NHKをぶっ壊す前に「崎陽軒」をぶっ壊すつもりだ。たかだか苦言を呈されただけで、どうして「崎陽軒」を壊されないといけないのだ。ふざけるな!

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 ◆12日(月)に放送されたNHKスペシャル

かくて“自由”は死せり ~ある新聞と戦争への道~
www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190812

2019年8月12日(月)
午後10時00分~10時49分

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なぜ日本人は、戦争への道を歩むことを選択したのか。これまで"空白"だった道程を浮かび上がらせる第一級の史料を入手した。

治安維持法制定時の司法大臣・小川平吉が創刊した戦前最大の右派メディア「日本新」である。1925~35年に発行された約3千日分が今回発見された。

発刊当時、言論界は大正デモクラシーの全盛期。マイナーな存在だった"国家主義者"は、「日本新聞」を舞台に「デモクラシー=自由主義」への攻撃を開始する。同志の名簿には、後に総理大臣となる近衛文麿、右翼の源流と言われる頭山満などの実力者が名を連ねていた。国内に共産主義の思想が広まることを恐れた人たちが、日本新聞を支持したのである。

さらに取材を重ねると、日本新聞は地方の読者に直接働きかける運動を展開していたことも明らかになってきた。そしてロンドン海軍軍縮条約天皇機関説排撃など、日本新聞が重視した事件がことごとく、社会から自由を失わせ軍の台頭を招く契機となっていく。

知られざる日本新聞10年の活動をたどり、昭和の"裏面史"を浮かび上がらせる。

※登場人物に扮した俳優が、当時の原稿や発言を朗読。小川平吉役は、伊武雅刀さん。他に石丸幹二さん、正名僕蔵さん、小林勝也さん、高瀬哲朗さんが出演。

◎10年で目標を達成できた、「新聞『日本』の十年は日本転向の十年である。国民思想の性質はすでに一変した」として新聞を休刊させるところが怖い。そして下伊那(長野県飯田市)の小学校の音楽教師(小林八十吉さん)で大正デモクラシーの自由教育を志し、子供の芸術性を伸ばすため自費でピアノを購入しながら、昭和の恐慌で時世は芸術教育にはそぐわないと自ら教師を辞めた人が、日本新聞の推奨する国家主義になびいていく過程。怖いな~と思いました。一方的な情報で洗脳状態を作り出すと人は容易に考え方が変わり、自分を見失う。「信頼できるのは軍部のみ」と日記に書くまでに。息子さんが手にした日記の敗戦3日前からの分が破かれていて、「自分が悪かったと考えたのか」という息子さんですが・・・

見終わって、日本新聞を日本会議に置き換えれば、今の日本の状況もそっくり同じに見えてきます。公民館や公共の施設で護憲の集会は許可されなくなっています。9条と書いたものが目の敵にされています。そのことに市民の反応も鈍い。一方で声高に国家主義を煽る行為はメディアでも大きく取り上げられます。政治家が自由を奪う発言や行為を平気でやるようになっています。

内田樹氏の冒頭引用したツィッターの「治安維持法特高憲兵隊も存在しない日本で、市民たちの暗黙の(あるいは公然たる)同意の下に『言論の自由』が失われるというようなことがあるとしたら、それは日本の戦後民主主義にまったく指南力がなかった」 という状況になっています。危険ですね。市民一人一人が『空気』に負けず、発言すべき時なのかも。

内田樹 Retweeted

山崎 雅弘 @mas__yamazaki 

2019年8月15日

天皇の言葉「終戦以来74年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられました

稲田朋美議員が代読した安倍晋三首相の言葉「令和の新しい時代を迎え、改めてわが国の平和と繁栄が祖国のために命をささげたご英霊のおかげであると感謝と敬意を表します」

慰安婦問題と中曽根氏の「土人女を集め慰安所開設」文書と「国際信用等級」ほかアレコレ

◎今年は庭の草にセミの抜け殻が沢山くっついています。仰向けになっているアブラゼミをタイルから土の場所へ移してやろうと触ったら生きていたのでびっくりしました。短い命、鳴ききって次の命をつないでまた7年間も土の中なんですね・・・ 

内田樹 Retweeted

室井佑月 @YuzukiMuroi 8月12日

入院中。ネットニュースとワイドショー観てみたけど、すげぇな、この国では暑い以外、何も起きてないことになっとるわ〜その暑い話も、来年のオリンピックと結びつけて話ができない。権力に忖度すっと、汚染水の話も、佐川さんの話も、この国の戦争責任の話もできない。で、みんなで暑い〜いってる。

 

Masa da Oldskooler @itsgroovymasa 8月13日

帰省のたびにツイートしてますが。東京や全国の人が知らないこと。NHK福島では定時の天気予報に連結して放射線量が速報されますそして東京や全国の人が知らないということをあらかたの福島の人たちは知りません。

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慰安婦問題で、”なかったことにしたい人たちが持ち出す証拠 ”というのが、いつも的外れなのはどうしてでしょう。今回も・・・

内田樹 Retweeted

町山智浩 @TomoMachi 8月13日

日本軍の慰安所が募集しているのは親の同意書が必要な17歳(当時は数え年だから16歳)の少女。しかも金は親が受け取り、本人にとっては自由になるための借金になる。そんな哀れな女性たちをどうして「ただの……」なんて蔑めるんだ。

この「ただの……」と言っている人は当時の人ではなく、現在生きている人ですよ。なぜ戦前戦中の価値観のままなのですか?と言ってるんですが。

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ナポレオン・ソロ @annatkhso· Aug 10

Replying to @FoundNimo and @Y_Sadamoto

慰安婦のうち、40%は日本人女性。20%が朝鮮人女性。強制連行などしなくても、慰安婦募集の広告を出せば、応募があった。慰安婦の数は最も多い時期で、2万3千人位。親の同意書が必ず必要。管轄の警察官が二度面接。で、営業許可書が出ました。当時売春業は合法。

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内田樹 Retweeted

町山智浩 @TomoMachi 8月12日

この「たかが」という言葉に慰安所問題の本質が露呈している。「キッタネー」とか言っちゃうのもそこなんだ。本当は韓国や戦争以前に、その「たかが」に表れた蔑みこそが問題なんだ。

小遣い稼ぎや贅沢したくてやってたんじゃなくて、他にどうしようもなかったんだ。慰安婦に最も多かったのは日本の貧しい小作人の娘だった。親が食い扶持を減らすために売ったんだ。その代金を稼ぐまで自由になれず、稼ぎからは家賃や食費が引かれて手元にはいくらも残らない。「たかが」じゃない。

(link: https://twitter.com/tomomachi/status/1160819993031802880)

twitter.com/tomomachi/stat…

ここについてる反論スレの群れがもはや韓国など関係なく、吐き気がするほど女性差別的。慰安婦問題の本質は本当はまさにそこなんだ。 

 

4:47 PM · Aug 12, 2019·Twitter for iPad

中曽根康弘氏が 「土人女を集め慰安所開設」という文書を、4年前の報道特集が取り上げています。リテラの記事から:

内田樹氏が、 赤旗の取材に答えて「野党共闘」について話しています:

内田樹 @levinassien 8月13日

・『赤旗』の取材だん。お題は「野党共闘」。目の前の「敵」と「戦う」というスキームにとどまる限り、共闘であろうと連合戦線であろうと、広範な国民的統合は果たし得ません。相手は「敵」ではなく、わが国の未来に待ち受けるさまざまの「リスク」です。

・そのリスクを回避し、国運の衰微を押しとどめ、国民資源のストックを使い延ばし、後世に、寛容でそこそこ豊かで民主的な社会を遺すために何をすればいいのか衆知を集めて対話できる開放的・包摂的な政治運動だけが「国民の統合」を果たすことができるでしょう。

安倍政権は国民を分断し、多数派が総取りし、反対派には何もやらないという分かり易い仕組みを作りました。でも、国民が分断された国では国力の衰微が進むだけです。日本が再生するためには「分断から統合へ」のシフトが必須です。「挙国一致」を次回選挙のスローガンに、というお話をしました。

◆「国際信用等級」というものがあるんですね~。かつて日本はバブル期にはAAAだったのに、今は韓国より2つもレベルが下がって、A一つ。韓国ヘイトの方たち、わかっているのでしょうか? 

内田樹 Retweeted

Hironobu SUZUKI @HironobuSUZUKI Aug 12

それより悲しいのはバブルの頃は日本はAAAだったことだな。今やただのA。

韓国云々いってる場合じゃない。30年で下がりに下がったこの意味を考えなければこの先もさらに下がるだろうな。

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sparkle @Dufferin_Clark · Aug 11

国際信用等級日本が韓国より2つレベル下って日本人知らないよね?

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◆ 「反省できない日本」と言われてしまった。また、「日本の若者は20世紀初頭に日本が単に自国の利益を追求したと学校で学んだため過去の行為に対する謝罪の必要性をほとんど感じることができない」と戦後教育の失敗も指摘されています:

内田樹 Retweeted

mipoko @mipoko611 8月13日

とても的確に、日本の歴史認識の大失敗と教育の失敗の指摘それが日本だけでなく世界経済にも脅威となる泥沼の予測をしてある世界から見えてて多くの日本人にだけ見えてない未来予測。

ブレジンスキー氏は、「日本社会は第2次大戦中、自国の軍隊がしたことを認めて反省を見せることに失敗した」とし、ドイツとは異なる振る舞いを批判した。さらに「日本の若者は20世紀初頭に日本が単に自国の利益を追求したと学校で学んだため、過去の行為に対する謝罪の必要性をほとんど感じることができない」とし、「このようなすべての傾向が国粋主義的大衆の記憶を強化し、貿易問題を悪化させている」と指摘した。

・さらに、「(韓日貿易)問題が解決されても、日本が隣国と和解するために一貫した広範囲な努力を傾けなければ、アジアには常にさらなる経済的、軍事的危機が迫るだろう」と警告した。