ドラマ「八日目の蝉」最終回「奇跡」

毎回、先の読めないドラマをハラハラしながら見て、全6回の最終回。
(我が家の玄関ポーチの蝉の抜け殻)

原作者の角田光代さんがインタビュー番組で、「テレビはテレビ、毎回泣いて見ています、希和子、可哀想」と仰っていましたが、原作を読んでいない者も、誘拐犯の希和子さんに感情移入して見てしまっています。
今回、初めて、成人した薫が主体になった最終回でした。子どもを奪った希和子さんの物語と、奪われた被害者の側、そして、奪われた子どもの薫にも物語があったということでした。「薫」は希和子さんがつけた名前で本当は別の名前。
彼女は最後に希和子が叫んだ言葉を思い出せないまま、元の家族に戻った時点で、希和子(「世界一悪い女」と母が言う)との過去の5年間を消去、楽しかった幼児期の思い出を封印して、15年間を生きていました。それは、新しい家族のなかで、傷つけず、傷つかず、幼い子どもが生きていくために必要だったから。

小豆島を訪ねて、二人の軌跡を辿るうちに、彼女は少しずつ過去を思い出します。希和子と薫の二人をいつも見守るように愛していた岸谷五郎演じる彼から、思い出せなかった最後の言葉を教えてもらいます。取り押さえられた希和子が、警察官に連れ去られる薫に向かって、叫んだ言葉。「まだ、その子、ご飯を食べていないの〜!」という言葉に、薫は子どものように泣きます。過去の封印を溶かすかのように嗚咽と共に涙が流れます。
薫は蝉の抜け殻を捨てないで持っている子どもでした。「蝉は7日間生きて死ぬ。中には8日間生きるのもいる」と母親の希和子に言われて、「皆7日で死ぬのに、一人生き残ってもつまらない」と薫が答えます。どうもここから、タイトルが「八日目の蝉」なんだと思っていましたが、その意味が最終回で明かされます。
刑期を終えた希和子が小豆島の見える岡山側の船着場のお店で働いています。すべてを失った彼女でも、5年間の薫との生活、二人で過ごした小豆島の生活、抱きしめた薫の身体の重さの実感、それらの思い出があれば、生きていける。愛した過去、愛した記憶があれば八日目も生きることが出来る。

薫はお腹にいる子どもを産む決心をします。奇跡のような偶然で、薫が過去を思い出せたこと、蝉の自分の前身、空蝉の中に居た蛹(さなぎ)の記憶を取り戻せたことが奇跡! 育ての母希和子には、薫が、あの二人で暮らした島を訪ねて来た、蝉の抜け殻を持って、あれは薫に違いないと思えたことが奇跡!
男の裏切りで母となる機会を奪われた希和子が、母性愛の対象を、裏切った男の妻が産んだ子を奪って獲得するというお話ではありますが、すんなり希和子の行為を受け入れて、希和子の側でこのドラマを見続けることが出来たのも「母性」の為せる業?・・・じゃなくって、明らかに、これは、希和子役の檀れいさんの丁寧な演技の賜物です。 

一夜明けて、ドラマのあの終わり方、追いかけた希和子の「かおる〜!」と呼ぶ声に反応した薫が逆光の中の希和子を認めたのか、あるいは、空耳だったのか・・・そのまま行ってしまって終わります。薫は希和子と同じように不倫の末に結婚は叶わず、それでも母親の同意を得て、お腹の子どもを堕して産めない身体になった希和子とは違って、やがて母親になるでしょう。その時、今度は、産みの母親が子どもを奪われる悲しさ苦しさを理解できるようになり、薫は今度こそ本当に「恵理菜」になれるんだろな〜、希和子さんの方、愛した記憶、育てた思い出だけでは本当に抜け殻だよ、まだまだ自分自身の人生、母性以外の愛だってあるし…とドラマの余韻がそんな風にドラマの続きを見させてくれます。

犯罪者で(小説は善悪を問うものではないし…と角田さんも)、逃亡劇で、戸籍がなければ学齢期がきても小学校には行けない、いずれ別れが来る、という設定や、隠れ家として、謎の女性宗教集団が出てきたり、切っ掛けを作るゴミ屋敷の一人暮らしの老女が現れたり、スリル満点、虚を付くような構成(脚本・浅野妙子)も期待感を増して、毎回楽しみに見ました。