「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(1)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

ブログに、難しくてナカナカ進まないと書いた(5・24)のが切っ掛けで又読み出したら、面白くて・・・、それに戦争の時代が新しくなって身近になった所為もあります。読み終わったのは大分前の事ですが、感想としてはまとまらず、取っかかれないでいました。

まず、「『戦争』を選んだ」というところに興味がありました。確かに、その当時の政治家や国民が他でもない「戦争」を「選んだ」のは何故か?知りたいものです。どこをとっても、ジックリもう一度読んで考えたいテーマばかりですが、特に印象に残った点だけを今回は。

過去の歴史はお手本にもなるが、誤用することもある。例えば、アメリカの中国喪失。
第二次大戦前の中国でアメリカは蒋介石の国民政府を支持してきたが、49年以降中国は共産化。これがアメリカの非常なトラウマとなり、「戦争の最後の部分で内戦がその国を支配しそうになったとき、あくまで介入して、自らの望む体制をつくりあげなければならない。」という「教訓」が生まれ、これを当てはめて失敗したのがベトナム戦争の泥沼化だといいます。
日本の場合は、アメリカとの開戦を控えた1941年9月6日の御前会議でのこと。渋る天皇に向かって永野軍司令部総長が「大坂冬の陣のごとき、平和を得て翌年の夏には手も足もでぬような、不利なる情勢のもとに再びたたかわなければならぬ事態に立至らしめることは皇国百年の大計のために執るべきにあらずと存ぜられる次第で御座います。」
もう一つは41年11月15日の山本五十六連合艦隊司令長官天皇への作戦説明。「真珠湾攻撃は『桶狭間』の戦にも比すべき奇襲作戦」と説明され、1560年の今川義元の大軍を十分の一ほどの軍勢しかない織田信長が急襲し、見事、勝利した戦が「教訓」として使われました。こういう話には天皇ならずとも弱いものです。説得はできても結果として「誤用」だった例ですね。大事なのは「誤用を教訓とすべし」の方です。

国際連盟の議場で憤然と脱退する昔のニュース映画でお馴染みの松岡洋右についてのエピソードなども政治的立場での行動とその人の内面の考え方とは別なんだというケースで驚きました。こういった教科書では知りえなかった興味深い事実が沢山紹介されて面白いのですが、なかでもビックリしたのが、「第4章 満州事変と日中戦争」のタイトルの下に書かれている「日本切腹、中国介錯」という言葉。このサッパリ見当のつかない「意味」が解き明かされます。

この言葉は胡適日中戦争が始まる前の1935年に唱えた論で、胡適は38年から駐米国大使となり、日本が真珠湾攻撃を行った時もワシントンにいました。胡適の考えは「日本が中国に対して思うままに振舞えるのは、アメリカの海軍増強とソビエトの第二次五カ年計画がいまだ完成していないからである。海軍、陸軍ともに豊かな軍備を持っている日本の勢いを抑止できるのは、アメリカの海軍力とソビエトの陸軍力しかない。このことを日本はよく自覚しているので、この二国の軍備が完成しないうちに、日本は中国に決定的なダメージをあたえるために戦争をしかけてくるだろう。」
この通り、日中戦争は37年7月に、アメリカ相手の太平洋戦争は41年12月、日ソ戦争はその戦争終盤の45年8月に始まりました。

胡適は考えます:

アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、二、三年間、負け続けることだ」「中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。そのために次の三つを覚悟しなければならない。第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。第二に、河北、山東、チヤハル…といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない。」続けて「我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、二、三年以内に次の結果は期待できるだろう。満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけこむ機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の開戦がそれによって迫ってくる。」

この胡適の論がそのまま中国の外交政策になったわけではないが、と加藤先生は、日本の御前会議の形式主義に比べれば、中国政府内の議論には「政治」がある、と書いておられます。胡適の35年の論が、見事にその後の歴史の流れを正確に言い当てているのに驚きます。
胡適の論の最後の部分では:
「以上のような状況に至ってからはじめて太平洋での世界戦争の実現を促進できる。したがって我々は三、四年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は『日本切腹、中国介錯』というこの八文字にまとめられよう。」
なんという見通しでしょうか。太平洋戦争終結の10年前に書かれた文章です。日本は「飛んで火に入る夏の虫」状態。「皮を切らせて肉を切る」というのでしょうか。こんなに優秀な中国人外交官がいたのですね。
しかし、もう一人、優るとも劣らぬ優秀な政治家がいます。紹介されているのは汪兆銘
35年の時点で胡適と論争して、こう反論しています。「そのように三年、四年にわたる激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまう。」そして、この汪兆銘の怖れ、予測も見事にあたっています。49年に中華人民共和国が成立します。「日本切腹、中国介錯論」ではダメだ、中国は日本と決定的に争っていては国民党は敗北して中国共産党の天下になってしまう、そのような見込みを持って汪兆銘は日本と妥協する道を選択して、国民政府ナンバー2であったのに蒋介石を裏切り、38年末、今のベトナムハノイに脱出、後に日本側の傀儡政権を南京に作って主席となり、南京・上海周辺地域を治めます。

ここまで覚悟している中国を日本軍は相手にしていたわけですから、戦争は中途半端な形では終わらない。
普通なら降伏する状態になっても、中国は戦争をやめようとはしなかった。胡適汪兆銘などの深い決意に支えられていたに違いない、と。

戦争をするには敵と己を知らなければ・・・ですね〜 
ところが、日本にも「日本は戦争する資格がない」と言った人がいたんです! 水野廣徳という軍人さん。
1929年の「無産階級と国防問題」という文章のなかで、
「現代の戦争は必ず持久戦、経済戦となるが、物資の貧弱、技術の低劣、主要輸出品目が生活必需品でない生糸である点で、日本は致命的な弱点を負っている。よって日本は武力戦には勝てても、持久戦、経済戦には絶対勝てない。ということは、日本は戦争する資格がない。」
「しかし、水野の議論は弾圧され、国民も真剣にうけとめず、議論は飛んで、持久戦ができない、ならば地政学的にソ連を挟撃しようか、あるいはいかに先制攻撃を行うか、といった二者択一となってしまう。」
(残念です)                                       。。。つづく。。。