HV特集「二重被爆・広島・長崎を生き抜いた記録」

昨夜はNHKハイビジョン特集を見ました。
番組欄には「広島と長崎で原爆の火球を見た▽黒い雨▽再現ドラマ60年の沈黙と感動の物語 仲代達矢」とありました。
山口彊(つとむ)さん、大正5年生まれで私の父と同じ、お世話をされている長女は、昭和23年生まれと分かりました。

ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆 (朝日文庫)

ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆 (朝日文庫)

生かされている命 - 広島・長崎 「二重被爆者」、90歳からの証言

生かされている命 - 広島・長崎 「二重被爆者」、90歳からの証言

長崎の三菱造船の設計技師で、同僚2人と広島へ出張、爆心地から3キロの地点で被爆。三菱の寮は跡形なく、翌日4つの川を渡って長崎行きの避難列車で帰って、火傷の手当てを受け、9日、報告に出社し、そこで、2度目の被爆
健康には色々問題があったが解雇、復職を経て定年。50歳を過ぎた頃から語り部として原爆を語り継ぎたいという思いを持ち、定年を切っ掛けにその思いを打ち明けるが、家族の反対にあって、封印。
それなのに89歳にして語り部となったのは、その年、長男(59歳)を原爆症のような全身ガンで亡くしたのが切っ掛け。
2度も被爆し年老いた自分が生きているのは、語り部として生き残されたのだと、残る命の限りを原爆の悲惨さを語り、反核を訴え、高校生たちに受け継いでもらいたいとバトンを渡す思いをこめて語りに語り続ける日々。

NHKのディレクターが2005年、そういう山口さんの姿を番組におさめ、映画にした。それを国連の軍縮委員会で見てもらうよう働きかけ、渡米。国連で職員を前に映画を上映、山口さんが挨拶をする。この場面辺りから見た覚えがあると自分の記憶と重なりだしました。今年、国連総長が訪日、広島の平和式典に初参加の背景には山口さんの国連軍縮委員会スタッフへのこの働きかけがあったからかも知れません。

あんなに元気だった山口さんが昨年、病に倒れる。病名は胃がん。彼は、タイタニックアバターで有名な映画監督ジェームズ・キャメロン監督に英語で手紙を書いて原爆の悲惨さを伝える映画を作って欲しいと頼み、昨年の12月22日、監督は小説家をつれて二人で病床の山口さんを訪ねます。 J・キャメロン監督は「手紙を読み、来るしかないと思ってきました。原爆の真実を伝える、人々に何が広島と長崎で起こったのかを伝えたい。」「あなたは2度の被爆で全てを目撃した選ばれた人です。二度と原爆をつかってはならない、二度と起きてはならない事を伝えます」と言う監督と山口さんはシッカリ手を握り合い、山口さんは、「魂でつながりました」「私は責務を果たしました」と答えたのです。

山口さんはほとんど話さず、でも、「何故伝わるのか? それを追究すれば、それは、真理、信仰だ」と山口さんは言います。
年明けて1月4日、山口さんは、娘さんの言葉によると、穏やかに安心したように息を引き取ったそうです。

素晴らしい生き方の記録です。2020年までに本当に核なき世界が実現してほしいし、実現させたいですね。
勿論、それまでに、お約束のJ・キャメロン監督の映画も完成し、世界に山口さんの思いが伝わる日も来ることでしょう。

今朝のニュースでは、被爆2世となる娘の年子さんが、2月に高校生たちが開いた追悼集会で自分もこの高校生たちに負けていられないと平和活動をはじめる決意をされ、父親である山口さんの自費出版の歌集「人間筏」を紹介しながら平和を語り続ける姿を紹介していました。
また、今朝の新聞(日経)には昨夜の番組でも出ていたアメリカ人で、去年の夏山口さん宅に1ヶ月ほど滞在し歌集の翻訳で直接教えを受けていたチャド・ディールさんの記事が。チャドさんは記録映画「二重被爆」の英語版字幕を担当したことから山口さんと知り合い、2008年、長崎を訪れ、山口さんから「人間筏」を手渡されました。コロンビア大学院で現代日本史を研究しています。29才、奇しくも山口さんが被爆した年齢と同じです。
 歌集「人間筏」とノートから65首の英語訳を完成させ、先月アメリカで自費出版
アメリカで反核運動をしているアメリカ人女性、広島で山口さんのお話を聞いたアメリカ人の高校生たちに共通するのは「なぜ憎しみを超えてアメリカ人に平和を訴える事ができるのですか?」という疑問。一番不思議に思うところのようです。「原爆は、戦争は、敵も味方もない。人間の良心に訴えている。All for one, one for all. (アメリカ人である)あなた方にお願いしたい、二度と原爆は使わないで欲しい」が山口さんの答えだったような。