ある政治家の提言

2年前の誕生日に買い求めたアンティークのステンドグラス、ペンキがいよいよ剥がれて来ました。

先日「FOCUS」の復刊集号を息子が買っていたので見ました。今度は「AERA」の特集号です。
「27人の提言」の中で私が一番分り易かったのは政治家の河野太郎氏の提言でした。
まず、今回の原発事故について:

そもそも「想定内」のこともできていなかった。使用済みの核燃料など放射性廃棄物をどう処分するのか。高速増殖炉もないのにプルトニウムを取り出してどうするのか。様々な矛盾をそのままにして、多大な金を原発につぎ込んできました。

なぜ、そんなことが許されたのか。それは電力会社を誰もきちんとチェックしてこなかったからです。自民党は電力会社とべったり、民主党は電力会社の組合とべったり。霞ヶ関とは天下りでうまい汁を分け合ってきました。電力会社はメディアにもスポンサーとしてエネルギー政策に関する報道に介入してきました。それぞれが東京電力とともに、今回の事故に至った責任を認めなくてはなりません。政治家は電力会社から献金を受けず、メディアも電力会社から広告を受けるのをやめるべきです。

思わず、肩書きを見てしまいました。「自民党衆院議員」です。こんなにハッキリ物言う政治家だったんですね!
エネルギー政策に対してもハッキリしています。

日本は、将来的には、かなり遠い将来かもしれませんが、100%再生可能エネルギーに転換していくべきだと思います。原子炉の耐用年数がくるたびに、きちっと廃炉にし、とりあえずは一番クリーンな天然ガスに置き換える。サハリンに豊富な天然ガス資源を持つロシアとの関係を良好なものにしつつ、太陽エネルギーや風力エネルギーなど再生可能エネルギーを増やしていく。災害対策という意味でも、再生可能エネルギーは分散型だから、今回のように災害が起きても、一気にすべてがダメになることはない。

政治についても、「政治は、物事がきちんとまわるようにするためのものです。日本の政治は、エネルギー政策に関してずっと間違ってきました。それが今回噴出した。原発事故が収束に向かったら、聖域なき見直しをしなくてはなりません」。
3・11以後の政治家を判断する基準が見つかりました。

養老孟司氏の提言のなかに「原発の反対派も推進派も、結果的に両者が共同して手を抜いていた。われわれの生活に関係があることは、賛成か反対かというイデオロギーで考えてはいけない。大切なのはトータルで物を見る総合的な合理性である。」「福島で起きたことは、部分合理性にしか目が向かなかった結果である」。
「推進派も反対派も手を抜いていた」が良くわかりませんが、反対の仕方に問題があったということ?なんでしょうか。
日本人は、反対意見がある場合、お互いに意見を交わしたり議論することを避けて、一方を全否定してしまい、結局、日本を不幸にしているとかねがね思ってきました。反対すれば、人格まで否定され、レッテル貼りの応酬。このブログでもチョッと経験しました。相手の意見をまずは正しく受け止めるという事をしないで、曲解を土台に勝手に決めつけ、自分の言いたいことだけ言い募るという。
戦争中、天皇制反対とか戦争反対の考え方をすると、「非国民」のレッテルを貼られ、思想犯で自由や命を奪われた人たちがいました。その悪しき過去が、今の社会にも、生き残っているようにも思えます。勿論、自分の意見は、否定される事を恐れず勇気をもって発言すべきですが、上に立つ人、会議の主催者側にいる人が、反対意見を大事にする姿勢をまず見せることから始めて欲しいと思います。
昨日取り上げた「ツァラトゥストラ」のテキストで西先生が書いていたことがピッタリ当てはまります。まず、異なる意見が自由に発言できる安心の場が保証される事。そうすると、発言する場合、どういう言い方をすれば相手に伝わるかを本気で工夫するようになり、発する言葉も受け止める方も鋭敏になり、お互いの理解が深まり、新しい創造性が生まれるという具合です。逆に、自由な発言を封じ、反対意見を排除してしまうと、今回のように間違った方向に大きくぶれて修正が利かなくなってしまいます。
内田樹氏の提言は、先生らしくとても分りやすいです。<太古から倦むことなく繰り返された物語は、「予想もしなかったトラブルにいきなり巻き込まれた主人公が、限られた情報と手持ちの資源だけで窮状を脱出する話」である。そこには「危機的状況を生き延びるための知恵」があったからであり、その教訓はまことにシンプル、「金より命」「マニュアルより直感」。>
 サンルームのゼラニウムが花をつけました