22日(日曜日)は逸翁美術館のお茶席でお茶の先生がお茶を点てられるというので、Nさんの車に乗せて貰って一緒に出かけるという約束をしていました。予報では雨でしたので覚悟はしていましたが、出かける時間の10時前になると吹き降りの大嵐になってきました。電話があって家まで迎えに来てもらえることに。大植英次のチャリティーでご一緒だった方お二人も一緒でした。池田に入ったところで、お茶仲間の方をピックアップ。5人で激しくなる雨の中を目的地へ向かいました。
運転役のNさんも子供さんの塾の送り迎えで前を通って以来という逸翁美術館へ。私も30年近く前に一度訪ねて以来です。受付で聞くと、ここは記念館になっていて、新しく出来た美術館のお茶席ということで、叉車に乗り込み近くの元池田文庫の新しい建物へ。
財団法人逸翁美術館(現 財団法人阪急文化財団)では、阪急電鉄、阪急百貨店、東宝の創業者である小林一三(雅号:逸翁(いつおう))の自邸「雅俗山荘(がぞくさんそう)」を「小林一三記念館」として、2010年4月22日にオープンいたしました。逸翁美術館は、1957年の開館以来50有余年にわたり、小林一三が自ら収集した美術品等のコレクション約5,000点を「雅俗山荘」等において公開してまいりました。 小林一三が生前に「一都市一美術館」を提唱し、仮称「池田美術館」の建設を計画していました場所に、2009年10月、逸翁美術館を移転し、装いも新たに開館しました。
そこで、美術館移転後の「雅俗山荘」は、文化庁より2009年に「雅俗山荘」、茶室「即庵(そくあん)」及び「費隠(ひいん)」、正門「長屋門(ながやもん)」及び「塀」が、国登録の有形文化財に登録されたのを機に、当時の小林一三の自邸の状態に復元した上で、「小林一三記念館」として公開しました。
さて、新しい美術館の地下に車を止めてエレベーターで1階へ。
11時まで時間があるので、「与謝野晶子と小林一三」展を見ることに。
与謝野晶子(1878〜1942)と小林一三(1873〜1957)の交流は、明治40年頃に始まり、夫の与謝野鉄幹の洋行費用工面の為屏風を買ってほしいという手紙があったり、与謝野家の長男光と小林家の親族(娘だったか倫子さん)との姻戚関係もあったりと深い交流が窺えます。展示されていた中の圧巻は「源氏物語礼賛歌」短冊54枚、これを詠むきっかけになった、上田秋成筆「源氏物語短冊帖交屏風」と、その由来を記した手紙。チラシによりますと、当初、晶子はこの歌を発表するつもりはなかったものの、大正11年(1922)「明星」1月号に発表すると、次々に短冊、色紙などに揮毫し頒布。また、昭和13年(1938)に刊行した「新新訳源氏物語」の各巻の先頭にも載せられています。
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真新しいお茶室に入ると、昔の洋館にあった茶室「即庵」と同じように、土間に腰掛が並べてあります。
お客は畳に上がらないで靴のまま腰を掛けてお茶をいただけるようになっています。茶室は3畳半。右手はガラスで坪庭のモミジの新緑が雨に濡れているのが見えます。土間正面は桐の花を描いた扇子に晶子の和歌が書かれた複製が掛けられています。天井は畳の上が網代編で、土間の上は叉別で灯りが入っています。
絽のお着物でお茶を点てておられる所が半畳の畳です。お軸は小林逸翁直筆の「清正美」。扇子に書かれた宝塚の標語「清く正しく美しく」の地紙を外して軸物に表装されたもの。花器は立鼓(りゅうこ)(鼓を立てた形)で丹波焼き。今日のお道具類は即心庵が全部用意されたもので、お花は先生が選んで活けられたとか。柏葉アジサイと都忘れ(ミヤコワスレ)と斑入りの芒のような葉の3種類。
香合は今年の干支の兎の顔と耳を描いた粉溜(ふんだみ)という漆器でお香は白檀。茶杓は「利休百首彫入」という象牙製、手元の灰色に見えるところが百首彫り込んであるところ。米粒に字を彫る名人がいますがあの技でしょうか。棗(なつめ)は蓋を開けると桜の花びらが描かれていて、身の中にも花びらが飛んでいます。蓋をすると黒く吉野山が描かれているようです。朱がかった茶色が何ともいえない色合です。蓋置きはフランス製の陶器、元々はエッグスタンド。写真にはありませんが、水指しは九州の焼き物で「上野(あがの)流釉水指」。お茶碗は赤楽の「むら雀」銘は即中斎。他にもいろいろたくさん。主菓子は花菖蒲。干菓子の方は先生手作りの菖蒲(落雁の味)と小さな太鼓焼きのようなものが出されました。
2杯タップリお茶を頂いて、次の回を待っている方たちに交代。あの吹き降りの大雨が嘘のように止んで晴れていました。
次々出されるお茶碗の中には、流水柄の練りこみの夏用の平茶碗もあって、時節は初夏、いいお茶でした。