ジューンベリーの収穫と昨日の夕刊から(村上スピーチほか)

あれから三ヶ月が経ちました。死者15,405人 行方不明8,095人 避難90,109人(10日午後4時現在)
昨日、私がすすめた小出裕章の「原発のウソ」を読み終えて、広瀬隆民主党の勉強会での動画を見た夫が、脱原発宣言をしました。
「それまでは?」と聞くと「そうはいかないんじゃないかと思ってた」んだそうです。「だけど、もう決まった。即刻、廃止。これからは反対デモにも行くぞ!!」と宣言しました。
実は今日、そのデモがあるのですが、今日は、これから、一昨年一緒に南仏の旅行をしたご夫妻が来られます。今年、川崎での仕事を辞めて加賀市に戻ったというので、「ご苦労さん会」をします。
デモの成功を祈りながら、私はブログを・・・。

10日(金)の夕刊トップニュースは「関電15%節電」「来月から/家庭・企業一律要請・正式発表」
橋下知事協力反対」も載っています。

関西広域連合として節電対策を打ち出すために、関電側に早い段階から電力需要のデータ開示などを求めてきたのに、一切の答えがなかった。この期に及んで15%の節電と言われても、まったく納得できない。僕は協力するつもりはない」と報道陣に怒りをぶちまけた。13日に関電の八木社長との面談を要請しているといい、「停電になるなら考えないといけない。関電と一つになれればいいと思う」とも述べた。

夕方のテレビのニュースでは、橋下氏は「その手に乗ってはいけない」という言い方で、「狙いは原発が必要だといわせるため」とも。どうも言い方や煽り方がヤンチャで乱暴ですが、よくよく聞いてみると関電側はおかしい。と思っていたら、ニュースで「国が相手で、地方にとやかく言われる筋合いはない」という言い方をしたとか。夫が「独占企業はみな官公庁だと思ってるんだ」と。全く、東電だけかと思っていたら関電までも・・・関西人、しっかりしなきゃ。
日経夕刊によると作家の村上春樹さんが「核『ノー』貫くべきだった」と言及したというニュース。
スペイン北東部のカタルーニャ自治州政府は9日、人文科学分野で功績のある人物に贈るカタルーニャ国際賞を作家、村上春樹(62)に授与。受賞スピーチで村上さんは、東日本大震災福島第一原子力発電所の事故に触れ、原爆の惨禍を経験した日本人は「核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった]と述べた。


  「非現実的な夢想家」と題したスピーチで、震災後の日本はやがて「復興に向けて立ち上がっていく」と強調。ただ、原発事故は、広島、長崎に原爆を投下された日本にとって「2度目の大きな核の被害」とし、今回は「自らの手で過ちを犯した」との厳しい見方を示した。
  村上さんは「公立」優先の考えが過ちの原因とした上で、政府と電力会社が「効率の良い発電システム」である原発を国策として推進した結果、地震国の日本が世界第3の原発大国になったと指摘。原発に疑問を持つ人々は「非現実的な夢想家」として退けられたと批判した。
  その上で「われわれは持てる英知を結集し原発に代わるエネルギー開発を国家レベルで追及すべきだった」とし、それが広島、長崎の犠牲者に対する「集合的責任の取り方となったはずだ」と述べた。

讀賣の書き方では、<村上さんは、原発に反対する人々がこれまで「非現実的な夢想家」と呼ばれてきたとしたうえで、「今や原子炉が地獄の扉を開けた」と語った。さらに、「我々は広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれた言葉『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』を、再び心に刻むべきだ」と訴えた。>
◎この素晴らしい長文のスピーチ全文はコチラで:「つっぴーの憂い日記」(http://d.hatena.ne.jp/Tsuda_Katsunori/
もう一つの記事は、讀賣夕刊の「松任谷由美のプレミア対談」”yumiyoriな話”の第34回。お相手は小林克也さん。

最後の部分から:松「これからの日本はどうなると思いますか。」
小「大震災で、色んな分野で、正しいとされてきた遣り方が違うんじゃないかと思われ始めてきた。だから逆に、新しい時代だと考えてほしい。経済力や技術力で中国や韓国にトップを奪われれば悔しいけれど、僕はそれぞれに順番が回るという考え。物質面ではなく、総合的にはいい時代になるという予感はします。節電で街が暗いけど、この暗さが必要だったんじゃないかな。よその国の都会はこんな暗さだよなあって。 松「ヨーロッパみたいで。」
小「そう。そういう意味では、悲観してない。80年代型の繁栄ではなく、違う時代が始まってほしいです。」

こういうことを言う人って?と人物紹介を読みますと、「小林克也:日本におけるDJの第一人者であり、俳優、ミュージシャンなどの幅広く活躍。70年代後半に音声ユニット「スネークマンショー」で注目を集め、「ベストヒットUSA」は80年代洋楽ブームの象徴的なテレビ番組となった。現在もラジオ、テレビの仕事を精力的にこなしている」とあり、1941年生まれの広島出身だそうです。