渡辺京二著「逝きし世の面影」

昨日は大雨の中、脱原発の署名に来てくれたNさんの車で「ミツバチの羽音と地球の回転」の前売り券を、彼女が事前に頼んでくれていましたので、受け取りに西南図書館へ。それから、我が家で久しぶりに二人でお茶。暗いしサンルームの方がいいというので、そちらで。
二人で、日曜日に見逃した「たかじんの何でも言って委員会」の元小沢一郎氏秘書の石川知裕さんの書き起しを「日々坦々」さんのブログで読みました。小沢さんに対しては正反対の評価をしている二人が同じ画面を見ているという図はチョッとオカシイ感じですが、物事には色んな見方があるという点で二人は一致していますので、これもアリです。二人で読み終えて、こんなだったんだ〜と感心しました。「若いのに冷静なんだね〜」と彼女。「結婚したんだって」と私。しばらく、その記事を求めてあちこちのブログを探検。


その後、ヒョンなことから、彼女とご主人の馴れ初めを聞くことになり、ご実家の話になりました。
今朝は電話があって午前中彼女の家を訪問。彼女が実家から引き取ったという夥しい量のアルバムが押入れの下段にビッシリ。そのアルバムの一部を見せていただいて色々お話を聞かせていただきました。それはもう人に歴史アリで壮大な物語でした。残されたアルバムの整理だけでも何年がかり?でしょうか。残すか灰にするかも彼女次第というのも辛いかもしれません。
お母様の形見の鼈甲(べっこう)の櫛と簪(かんざし)の細工があんまり見事だったので写真に撮らせて頂きました。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

さて、この本。5月5日、大阪駅が新装オープンした駅ビルの本屋さんで買い求めてから、葵祭の時も京都までの電車の中で読みたくて重い文庫本を持って行ってましたので、読み終わるのに半年がかりという超スローな読書?になってしまいました。その間、飛び入りで原発関係が入ったり中断期間もかなりのものでしたが。
私は、この本のタイトルを読むと小泉八雲の「知られざる日本の面影」(Glimpses of Unfamiliar Japan.1894年 )と何年か前のジョージ・チャキリスが演じたNHKのドラマを思い出します。あのドラマの中で八雲は、すでに日本が失ってしまう「逝きし世の面影」を憂いていました。近代化される以前の太鼓橋を渡る下駄の音に八雲が感じた古き良き日本とこの本のタイトルが重なります。
鉛筆で線を引いたところを抜書きしてみます。
「文化は生き残るが、文明は死ぬ。」「日本は捨てた過去よりも残している過去の方が大きいことはきわめて明瞭である。」「国民の性格は依然としてそのままであり、本質的には少しも変化を示していないのである」その例として「知的訓練を従順に受け入れる習性や、国家と君主に対する忠誠心や、付和雷同を常とする集団的行動癖や、さらには『外国を範として真似するという国民性の根深い傾向』である」(チェンバレンの言葉)。
チェンバレンはある民族の特性とある文明の心性とは、一見わかちがたく絡みあっているにせよ、本来は別ものであることを承知していたのだ。死んだのは文明であり、それが培った心性である。民族の特性は新たな文明の装いをつけて性凝りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻っては来ない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである。」

「滅んだ古い文明の在りし日の姿を偲ぶには、私たちは異邦人の証言に頼らねばならない。なぜなら、私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった自国の文明の特質が、文化人類学の定石通り、異邦人によって記録されているからである」として、各章に渡って膨大な外国人の見聞が引用され紹介されます。昭和・平成を生きる私自身が時代の異邦人ですから、江戸から明治の日本の文物や日本人を知ることは当時の外国人の目と大して変わらないかもしれません。
この本は、日本は誇るに足る国で否定すべきものは何もないという新しいナショナリズムに寄与するものという捉え方がされて最近また評判になったような気もします。しかし、そういう読み方も著者自身の思いとは相容れないものです。著者自身があとがきで述べているところを引用してみます。

 私はたしかに、古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言説を紹介した。そして、それが今ばやりのオリエンタリズム云々といった杜撰な意匠によって、闇雲に否定されるべきではないということも説いた。だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることにはなかった。私は現代を相対化するための一つの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった。  略


・・・・自分とは、過去の積分上に成り立ち、そこから自己の決断の軌跡を描こうとする二重の存在でしかない。その意味で私は自分が日本人であることを改めて認める。だが、それは国民国家日本の一員として自分を限定することとは異なる。自分が日本という風土と歴史のなかで形成されたものとして、人類の経験に参与する因縁を自覚するというだけのことである。  略


 だから、私はこの本を書いたとき、この中で紹介した数々の外国人に連れられて日本という異国を訪問したのかもしれない。彼らから観られるというより、彼らの眼になって見る感覚に支配されていたのであろうか。私はひとつの異文化としての古き日本に、彼ら同様魅了されたのである。
 その古き日本とは十八世紀中葉に完成した江戸期の文明である。


・・・・・・・いかなるダークサイドを抱えていようと、江戸期文明ののびやかさは今日的な意味で刮目に値する。