光は辺境から・・・「自由民権 東北で始まる」(その1)

1月からNHKEテレで始まった新しいシリーズ「日本人は何を考えてきたのか」の第2回は「自由民権 東北で始まる」。
「自由や自由や 我 汝と死せん」という苅宿仲衛(かりやど・なかえ)の言葉がタイトルの扱いです。

導入部は「明治の日本人、未だ憲法も国会もない時代に、地方自治の実現を求めた人々がいた。
東北で燃え上がった自由民権運動、今、復興に向けて進み始めた宮城県
130年前、東北の人々は戊辰戦争の敗北から立ち上がり新たな時代を夢見た。
国会の開設を求めて自ら憲法草案を生み出し、徹底的に国民の権利を保障した憲法草案が戦後になって発見された。
原発事故で被害を受けた福島県。かつて自由を求めて闘った民権運動家がいた。
新しい国の在り方を熱く議論した東北の人々。彼らはどんな未来を思い描いていたのでしょうか?
草の根で活動した自由民権の活動家たちを訪ねます。」
ナレーションと司会は三宅民夫アナ。旅人はNHK大河ドラマ獅子の時代」で会津藩士を演じた宮城県出身の俳優菅原文太さん。

1868年、明治元年戊辰戦争。薩摩と長州を中心とする新政府軍と会津藩を中心とする東北の諸藩が激突し、会津若松城に立てこもって敗れます。維新の後、東北では薩長藩閥政府への不満が高まっていた。そして、明治10年に入ると言論によって政府と闘う自由民権運動が始まる。これに対して政府は厳しい弾圧を加える。福島市は東北で自由民権運動が盛んだった地域。民権家の末裔大和田秀文さんと福島県歴史資料館を訪ねる。

どのようにして自由民権の思想に目覚めたのか?
苅宿仲衛(1854−1907)は幕末に今の福島県浪江町に生まれた。原発事故の後、警戒区域となっている。
大和田氏の祖先、苅宿仲衛の残した書、「自由や自由や 我汝と死せん」。激しい弾圧を生き抜き自由民権の志を貫いたことが知られている。西欧の民権思想に関心を抱き、蔵書の中にはルソーとかミルがあるという。当時の若い民権家はフランス革命アメリカ独立の戦いに心を熱くしながら西洋の政治思想を吸収していった。

浪江は江戸時代、飢饉が多く貧しい地域だった。そこで数少ない士族だった苅宿は明治に入って教師になったが、やがて、自由民権運動に身を投じ、農民たちに土地を世話したり、手助けをしながら民権運動を続けた。大和田さんは:「水飲み百姓に毛が生えたような貧しさで、苅宿の元には窮状を訴える手紙が沢山届いていた」。苅宿の業績を称える石碑が残されているが、大和田さんが震災後初めて防護服を着て警戒区域内の家を訪ねた時、碑は倒れていた。碑には「志士 苅宿仲衛君」「伯爵 板垣退助書」とある。苅宿は板垣退助に呼ばれて自由民権の地高知へ演説をしに行ったこともあった。全国を飛び回って活動していた。


自由民権運動は、板垣退助が明治7年、民撰議院設立建白書を提出したことに始まる。
明治13年、大阪の寺に全国各地の政治結社の代表が集まり国会期成同盟を結成、国会開設を求める請願には24万もの署名が集まり国民運動になっていた。苅宿も福島から1週間ほどかけて大阪へ向かった。
明治14年、政府は10年後に国会を開くことを約束。そして同年、板垣退助を総理とする自由党が結成された。日本初の全国的な政党である自由党。福島は高知と並ぶ自由党の拠点だった。


三春町では、古くからある寺で盛んに演説会が行われ、苅宿も三春町と浪江を行き来しながら活動した。苅宿が東北の同志たちに訴えた演説原稿が残されている:「東北の人々は一山百文などと綽名をつけて嘲弄されている。しかし、天が人間を生ずるにあたって東西の区別をたてるであろうか、西の人も人間であり、東の人も同じ人間だ。この梅を見よ。関西の梅も西洋の梅も同じ梅だ。ただ、気候風土が違うだけで、花が開く時期が遅かったり早かったりするだけだ。そして、梅の木が花を咲かせ実を結ぶのは、この根元に栄養を施しているからだ。我々も努力して知識を磨き自治の精神、自由の権利をのばし国家を安泰に出来る。」
福島県会津地方、冬は雪に閉ざされてしまう小さな村の一つ一つにも、かつて自由民権の新しい風が吹いていた。


西会津町会津自由党で中心として活躍した山口千代作の家に県内1つしか残っていない福島自由新聞」創刊号がある。この新聞は政府の厳しい弾圧を受け、7号で廃刊に追い込まれた。当時没収された新聞だが、たまたま箪笥の引き出しの下に敷いて物を入れていたため残ったという。明治15年に発行され、一面には創刊の辞が書かれている。
「福島自由新聞発行之趣意   自由ハ人ノ天性ナリ自由ヲ保ツハ人ノ道ナリ・・・」書いたのは植木枝盛。この新聞の編集顧問としてわざわざ高知から招かれた。
高知市
は当時、自由民権運動の中心地。植木は板垣退助の側近として民権運動を理論的にリードしていた。
明治憲法が発布される前、民間人の手によって各地で憲法案が作られた。中でも植木の草案は特に民主的といわれている。国民の権利と自由が無条件に保障された画期的なものだった。
植木枝盛、25歳で書いた東洋大日本国々憲案」には、連邦制の規定、死刑廃止の規定、抵抗権や革命権の規定がある。



草案の特色」高知市立自由民権記念館にまとめられている。
植木は生涯師を持たず独学で西洋の思想を学び独自の憲法草案をまとめた。
高知市近代史研究会の公文会長は:「自由民権家たちは、まさに命をかけて血を流して、言論弾圧を受けた。演説会で演説をして、警官から「弁士中止!」を食らったら、2か月3か月と投獄された人が何百といた。その中で自由を求めて闘った。それと同時に植木という人はアメリカの独立宣言とか世界が当時到達していた人権思想を学んだ。そして現実に自分達が闘っている問題と結合させて世界の人権思想を取り入れて組み立てているわけですから彼の憲法草案は当時として純度の高い草案だったと思いますね。」

植木の草案では地方自治に連邦制を取り入れている。
国というものは単位が小さければ小さいほど民主主義が徹底できる」、そう考えた植木は全国を70州に分けて、それぞれに地方自治を行うとした。第9条「日本連邦ハ日本各州ニ対シ其州ノ自由独立ヲ保護スルヲ主トスヘシ」。
 ”自由は土佐の山間より出ず” 地方自治を強く打出した植木は中央集権を弊害とした。植木の大阪時報への寄稿:「徳川政府倒れて我明治政府新たに政(まつりごと)を為(す)ることになりても、地方はいよいよ衰へ、随(したが)って財貨も地方を辞して京地に流れ込むの勢となれり」「地方は日々に貧弱に傾けり。豈(あ)に哀しむ可きに非らずや」。自由民権運動地方自治を求める運動だったのです


旅人の菅原氏に二人の専門家が加わって三宅アナと4人の話し合いに入る。
色川大吉氏(東京経済大学名誉教授):「幕藩体制の抵抗。東北は賊軍扱いされていたので自分たちの代表を送って薩長のやり方を牽制しようという動機に同調し、沢山の人が賛成した。
東北全体で民権結社は150社くらいあり、小さい町や村ごとに勉強会をやって、それを母体に演説会を開いたりした。考えられないくらい農村部の田舎にあり、仙台を飛び越えてつながっていた。例えば、産業の近代化の投資については西に行ったので、明治政府の近代化政策で見捨てられた、「白河以北、一山百文」の思いがあったのです。」
樋口陽一氏(東北大学名誉教授):「当時の地方対中央の対立の関係の意味をよくみると、現時点での中央と地方に置き換えられるものがある植木枝盛については、当時、憲法制定と国会開設はセットで民権勢力が権力をとって世の中をよくするという手段と考えていた。目的は、政治権力(political right)を当時の藩閥政治から奪い返し、一人ひとりの幸福・個人の自由権(civil right)を確立すること。幸福権ということを初めて言っている」
菅原文太氏:「一人一人の幸福なんて今なおざりにされていますよね。
高知の植木枝盛に会ってきた(憲法草案を書いた書斎が記念館に移築され、草案を執筆する等身大の座像がある)。 あの若さで余人と違う気迫がある。どこからあの発想が…」
色川:「植木の思想は、権力を批判する自由、悪ければ変える自由。 1.地方の自治権 2.言論の自由 3.抵抗権の3つがあれば、権力の独走を許さない、抑えられると考えた。植木は、権力=民衆に対して悪を含んでいる、本来自由というのは絶え間ない権力の監視と抑制の努力によってはじめて保障されると考え、あのユニークな憲法草案の思想となった。」
樋口:「デモクラシーの難しさを集中的によく示している。」
三宅:自治を大事に幸せをつかんで行こう……やがて前に大きな壁が立ちはだかる…中央政府と衝突することに。   つづく

土佐の坂本竜馬が生きていたら・・・歴史に「たら」「れば」は禁物といいますが、もう少し民主的な国家ができていたのではないでしょうか。あの時代に「万国公法」を読んでいた竜馬さんですから。「竜馬がゆく」では、ジョン万次郎からアメリカの大統領制のことを聞いて民主主義を学んだと司馬遼太郎さんは書いていますし。
薩摩と長州が江戸幕府に変わって頂点に立ち、強固な官僚制度で富国強兵の中央集権国家へ突き進むために、警察権力によって草莽の自由民権運動の弾圧、根絶やしを強行。
日本の自由民権運動については、明治時代、その後の大正、昭和期にも、欽定憲法明治憲法下、日本国民には余り知らされることも学ぶ機会もなく埋もれてしまった。そして戦争に次ぐ戦争。敗戦後は、米国一国の占領時代から「戦後民主主義」の時代に入っています。そのため、日本の民主主義は大戦に敗れたことで与えられた自由と民主主義だという錯覚・誤解・無知を生んでしまっているようです。
坂の上の雲」以前の明治の成り立ち辺りの勉強が必要だとつくづく思いました。
坂本竜馬は明治政府によって靖国神社に祀られていますが、西郷隆盛明治新政府に楯突いた国賊で、靖国には祀られていないという有名な話があります。竜馬さん、靖国に祀られることには今でも異議を唱えているのでは・・・。