3月3日、Mさんと一緒に池田の逸翁美術館へ出かける日です。出かける前に電話するという約束通り、11時少し前に電話があり、桜並木で待っていると、今日は運転席にご主人が。ご夫婦にくっ付いて行くことに。お茶席は、私たちは土間で椅子なのでズボン姿で出かけました。
3人でお茶室に入ったら、先生がおられ、ご挨拶をして、早速お茶を。後からお二人みえて、ご一緒にお話を聞かせていただきました。どのお道具も逸翁コレクションのもの。
お花は先生がご用意して活けてあります。桃の花と紅白の椿。魚の耳付きの花入れ。一畳もない畳の内側に炉が切ってある珍しいもので、お茶を点てる人は作法が違って大変なんだそうです。掛け軸は呉春の梅に小禽図(うぐいす)。棗は「こぼれ梅」、蓋置は竹に朱塗りで花押が刻んであるものでした。水差しも呉春ゆかりの方が描かれたものとか。主菓子は若竹を置いた練り菓子。お茶碗は「槍梅」という乾山写しのものや、口の広い大ぶりの志野などなど。茶杓入れの竹筒は銘が「旭旗」となっていて先生の説明では戦時中の旗竿だったそうです。
茶室の隣の展示場は4日まで「呉春」展です。池田の辛口のお酒「呉春」は有名ですが、チラシの説明では:「呉春(1752〜1811)は、江戸中、後期の画家。本姓は松村、号は月渓。初め大西酔月に絵を学び、次いで与謝蕪村に俳諧、絵画を学びました。天明元年(1781)、摂津池田に住み、池田の古名「呉羽(くれは)の里」にちなみ呉春と称しました。天明末頃、作風を蕪村風から写実的な応挙風に転じ、さらに両者を融合して新様式をつくりました。」
チラシの写真は、特別公開の重文「白梅図屏風」。六曲一双の大きなもので入ってすぐの展示でした。絹地に全面くすんだ青が塗ってあり、墨の濃淡で梅の木が描かれ、白い梅の花が浮き上がって見えます。写生に徹している感じの落ち着いた感じがしました。
運転免許証で65歳以上を証明(この為だけに携行?)して買ったチケットは小林一三の旧邸の小林記念館と共通券なので、歩いてそちらへ向かいました。以前お庭に面して土間と畳のお茶室になっていた即庵も奥に保存されていますが、手前の庭に面した部屋は「邸宅レストラン」になっていて、予約客で賑わっていました。Nさんご夫婦は20年ほど前に、私はもっと以前に一度訪れたきりの再訪でした。今回はプライベートに使われていたお部屋も全部見ることができ、お庭の2畳の小さい茶室も上から見ました。戦後、米軍に撤収されていた時期があったそうで、洗面所やバスルームは洋式になっていました。
ところで、美術館から記念館へ歩いていく途中の山梨出身のNさんの話では、小林一三は関西では貢献しているかもしれないが、故郷の山梨では、東部電鉄の根津さんは全学校にピアノを寄付しているけど、一三さんは一切ないので評判はよくないとか。ところが、「生い立ちの記」のパネルによりますと、明治6年(1873)山梨県韮崎で1月3日に生まれた一三は、その年の8月に母親を亡くし、父親は家を出て再婚。みなし児となった一三たちは伯父の子供たちと共に育てられますが、幼いころから苛められました。その生い立ちを読んだNさん、「判ったわぁ〜、いい思い出がなかったんだ〜」と。人に歴史ありです。慶応義塾の第3期生だったそうで、学費も出してもらっていたわけです。
「1893年、三井銀行に勤務。1907年には箕面有馬電気軌道(のちの阪急電車)の専務に就任。1910年、沿線の日本初の分譲住宅の販売に成功。1927年、阪急電鉄社長就任、動物園、宝塚大浴場、宝塚歌劇団を創設、29年には阪急百貨店を創立。34年には、社長辞任、近衛内閣の商工大臣、戦後は国務大臣も務め、57年(S32年)84歳にて生涯を閉じる。(チラシの経歴より)」。 一三はこの故郷の商家を移築保存していますが、阪神淡路大震災で解体を余儀なくされ、今は大きなお屋敷の模型が飾ってありました。
↑雅号の「急山人(きゅうさんじん)」は「箕有(きゆう)」を捩(もじ)ったもの
茶人としての小林一三も展示でわかるようになっています。大きなパネルの和服の一三翁の手に、椿と桃。
Nさんのご主人が気付いて、さっきお茶を頂いた茶室に先生が活けておられた花の組合せとピッタリ同じ! 偶然?それとも…と3人で。自筆のお茶会の茶器の組合せ図がありました。 一三さんのお茶は高価な道具を自慢する会ではなくて、コミュニケーションの場としてのお茶がモットーだったとか。 40代前半ごろから表千家の茶道の師と出会い、本格的な茶人として歩み始めたそうです。「西洋陶磁を茶道具に見立てた茶会や、懐石料理に洋食を取り入れた茶会など、新しい試みを茶会に取り入れ、実践した。」
即心庵で出されたお茶碗(上の写真)に書かれていた文字は一三さんの座右の銘:「胆大心小(たんだいしんしょう)」。「気持ちは強く大きく、その上、細かなことへの配慮を怠らない」という意味で、その通りの人柄であったとか。