瑠璃色の実と「ゆりあげ浜」

今朝も雨風激しく、このところ雨が続きます。先週のお天気の日に庭仕事をしたとき、一重の椿の根元に何やら春の日を受けて青く光るものを見つけました。
「龍の髭」の濃い緑色の細い葉の間に瑠璃色の実が輝いていました。どうも、そこだけでなくて、あちこちに。
昔から日本風の庭の縁取りや下草、今でいうグラウンドカバーに用いられた丈夫な草・竜のひげ(蛇の髭とも)ですが、見ようによっては蘭にも匹敵するくらい(と勝手に思っています)。
6,7月ごろ地味な薄紫色の花をつけて、それが年を越すと瑠璃色(ラピスラズリの濃い青色)の実になります。普段は濃い緑の葉に隠れて見えないのですが、先日は斜めから射す春の日に宝石のように輝いていました。葉をめくるとそれがあちらこちらに! その日を逃すと気付かなかったかもしれません。
さて、そろそろ一年。NHKも先週末から記念の番組を放送していますし、民放も。関西テレビの夕方の番組「アンカー」のメインキャスター山本さんは2週間ほど前から現地へ出かけてレポートを放送しています。忘れてはいけないし、忘れられない3月11日とそれに続くフクシマとその後の一年です。
ところで、宮城県仙台市の南東に名取川という川があります。その河口に、太平洋に面した小さな港町があり、一年前の大震災で甚大な被害を受けた「ゆりあげ」という地区があります。「ゆりあげ」という美しい響きの名前とそして「閖上」という珍しい漢字が不思議でした。一年近くなってその由来が分かりました。(「閖」は漢字ではなく日本で生まれた「国字」ということが・・・)
昨日(3月4日)の日本経済新聞朝刊の最終文化面に佐伯一麦(かずみ)という作家(1959年宮城県生まれ)が「震災と歌枕」というエッセイを載せています。その中に閖上という言葉と文字の由来が書かれていました:

  震災と歌枕     佐伯一麦 
                  <仙台在住。著書に「ア・ルース・ボーイ」(三島賞)、「鉄塔家族」(大仏次郎賞)、「ノルゲ」(野間文芸賞)>


<前略>


 元禄十(1697)年、仙台藩四代藩主伊達綱村が、城内の標高百メートルほどの小高い山に建立した黄檗宗(おうばくしゅう)大年寺が落成して参詣した折に、山門内から遥か東南の方角に波立つ浜を見て、「あれはなんというところか」と訊ねた。
「ゆりあげ浜であります」と近侍の者が答えると、重ねて「文字はどう書くのか」と綱村は問うた。「文字はありませぬ」と答えると、綱村は、「門の内から水が見えた故に、今後は門の中に水を書いて閖上と呼ぶように」といい、それから仙台藩専売の国字「閖」が出来たというのである


 いっぽう、「ゆりあげ」という呼び名の由来は諸説あるが、私が興味を惹かれるのは、貞観時代にあらたかなる十一面観音像が、波にゆり上げられたのを里人が発見し、これ以来この浜を「ゆりあげ浜」と称するようになったという説である。今回、しばしば貞観津波以来、という言葉を聞くこととなったが、その時に津波が運んできたものもあったのではないか。

歌枕については:

 仙台市の反対側の北隣には、人口六万人余りの多賀城市がある。こちらも仙台よりも歴史が古く、陸奥国府がおかれていたところである。その住宅地には、「末の松山」という歌枕がある。
    君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波も超えなむ
と、905年に奏上された古今和歌集の東歌に撰ばれ、以来、百人一首にも取られている清原元輔の有名な歌、
    ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは
をはじめ多くの歌人たちに詠まれた。
 反語的な表現もあるが、いずれの歌も、末の松山を波が越すということは起こりえない、との意で用いられている。恋を歌っていることから、やや大袈裟な表現と思われがちだが、このたび貞観以来の大津波に襲われることとなって、その比喩が当時の都人の実感に即したものだったと気付かされた。

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 869年の貞観津波の際に、陸奥国府が置かれていた多賀城近くの小高い丘の上の末の松山だけは波が越えなかった、という口伝えの噂が都人の耳にも聴こえ、それが歌枕の故事となったのではないか、と。
 今回の津波でも、波は「末の松山」を越えなかった。その麓近くには、芭蕉が同じく『奥の細道』で歩いた歌枕の「沖の石」があるが、こちらは車が流されてくるなど津波が押し寄せた。
 慶長三陸津波の七十八年後の1689年に芭蕉多賀城を訪れて、古人の心を想っては哀傷の思いを深め、鄙(ひな)びた調子の奥浄瑠璃を聞くともなく聞いている。芭蕉にとって、旅に出て歌枕を訪ねることは、厄災の中で生きた古人たちの心へつながることだったのだと、いまにして改めて思わされるのである。


<略>


今回の震災によって、古の歌枕を改めて再認識させられると同時に、陸前高田の奇跡的に唯一残った松のように、新たな歌枕も生まれたかもしれない、と思う。だが、原発事故の被災地が歌枕となることは考えにくく、それも原発のやりきれなさを象徴しているといえるのではないだろうか。

テレビで一年近くを振り返る番組を見ても、東日本大震災地震津波の恐ろしい規模の大きさに改めて驚きます。打ちひしがれながらも、立ち上がろうとされている人たちや、津波地震のさなかでも闘い続けてきた方たちの言葉を聞いていると、人間。そう簡単には負けないという強さを改めて思います。それにしても、自然災害については、昔から日本人にとって克服すべき大きな厄災だったことが分かりますが、福島の原発事故の人災だけは、全く異質の事故であり事件です。
原発については、知れば知るほど手を出すべき技術ではなかった…今、全部、やめたとしても、その後始末は今世紀では済まない…今、脱原発に向かって舵を切らないでどうするのという思いです。