先日の梅原さんの「3・11後の君たちへ」の内容とも重なる記事を見つけました。
「Various Topics」さんのブログからです。全文はコチラから:http://afternoon-tea-club.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/03/by_ca0f.html
科学は人間の能力のすべてを扱っているわけではない。それなのに、科学が唯一の真理だとするのは暴力だ、そして3・11以降、時代は転換点を迎えている。やはり、生き残るために変らなければ…と続きますね。
25日の東京新聞のコラムから、出だしと中ほど部分をコピーしてみます。
東京新聞(2012年3月25日) 時代を読む
「科学だけに依存」を問う by 内山節氏
20世紀初頭に活躍した哲学者にフランスのベルグソンがいる。彼が語ったことの一つに、自然科学は暴力にすぎないというものがあった。それはこういうことである。
科学は科学の方法で捉えた真理をつかんでいるにすぎない。つまり、科学の方法ではとらえられないことは、科学では扱えないのである。ところが、科学者は科学的な真理だけが唯一の真理だと言い、それを人々に信じ込ませようとする。それは、暴力だ、というのだ。
それは次のようなことと似ている。人間の能力にはさまざまなものがある。知識が豊富なのも能力だけど、他にも運動能力とか、美術、音楽の能力、他人を思いやる能力など、実に多様な能力をそれぞれの人がもっているといってもよい。ところが、偏差値が人間の能力を測る唯一の方法だとしてしまったら、それは暴力でしかないだろう。
<中略>
東日本大震災以降、私たちは、この時代が転換期を迎えていることをあらためて実感した。これからも、未来に渦根を残すような生き方をしてよいのだろうか。巨大なシステムに管理された社会が、果たして無事な社会だったのだろうか。国と地方自治体、そして私たちの関係はどうあったらよいのか。百年、千年に一度の大災害を語り継ぎ、教訓を残しつづける社会をどうつくったらよいのか。課題が次々に私たちの上にのしかかってくる。
そういう時代には、これまで常識として通用してきたすべてのことを疑ってみるしかない。果たして自由とは何だったのか。市場競争に明け暮れるだけの経済でよいのか。国とは何か。・・・・。
今日の時代とは、ヨーロッパが近代への助走を開始してから500年の時代が、行き詰まりをみせているのだと私は思う。そういう時代に東日本大震災は起こった。ゆえに、私たちはすべてを問い直す勇気が求められている。
科学とは何かを問いなおすのも、この時代の課題の一つである。別に科学を否定するというのではない。科学をひとつの方法として用いながらも、科学だけに依存しない人間の知恵が、有効性を発揮する社会をどうつくるかが、課題なのである。
東日本大震災は、この課題をも、私たちに提起したのではなかっただろうか。
時代の転換期。悪い方へ、それとも…
良い時代を迎えたいものですが、求められるのは勇気!なんですね。
さて、我が家の南の庭とはいえ塀の陰になってあまり日が差さない夏椿の根方にスミレが一輪咲いていました。
その横にはほっそりとした日陰育ちのクリスマスローズが。
ところで、春の花、クリスマスローズについて、先日名前が不思議というコメントを頂いたので調べてみました。
英名ヘレボルス(Helleborus)はキンポウゲ科のクリスマスローズ属に分類される植物の総称。ヘレボラスともいう。
「クリスマスローズ」というのは、クリスマスのころに開花する「ヘレボルス・ニゲル」だけを指した呼称であるが、日本の園芸市場では「レンテン・ローズ」と呼ばれる「ヘレボルス・オリエンタリス」なども「クリスマス・ローズ」の名前で出回る。多くの品種は、クリスマスのころではなく春に開花する。
中国の四川省から雲南省にかけて自生している「チベタヌス」を除けば、15の原種の全てが、東ヨーロッパからバルカン半島からトルコ、シリアに自生している。主にイギリスで、20世紀後半に、品種改良が進められた。「クリスマスローズ」というネーミングも「イギリスのクリスマス」に開花するという意味。夏は休眠状態となり根は活動を休止し、呼吸しているだけの状態となる。花に見える部分は植物学上では「花」ではなく「がく片」という部分である。そのため「鑑賞期間」が比較的長い、のだそうです。
てっきり「花びら」と思っていた部分が「がく」だと言われても、花びらにしか見えません。
でも、確かに花びらにしては堅いですが・・・