NHK「シベリア抑留」(8/8)と「封印された原爆報告書」(8/6)

日曜日のNHK「引き裂かれた歳月 〜証言記録 シベリア抑留〜」の後半を先ほど(昨日)録画で見ました。
見終わって私は何年か前にご近所のHさんが「お兄さんが書かれた本、是非読んで欲しい」と生協さん仲間で廻し読みした本の事を思い出しました。

小学校の時、2組しかない学年のもう一つの担任の先生がいわゆるシベリア帰りの先生で、体操の時間が雨降りの時などはこの先生のシベリアのお話を聞かされました。寒くて、ひどい状況で、働かされてというお話で、暗くて怖くて嫌な時間だったのを思い出します。シベリア抑留についてそれ以後ずい分間を置いてこの本を読んで驚きました。それで、この本を私の知り合いの中で廻し読みをしたいので買わせて欲しいとお願いしたら、たくさんの人に読んで欲しいからと譲って頂く事になりました。その本をNHKの番組を見て思い出し、取り出してみました。
松本宏著「最後のシベリヤ捕虜記」(東京経済)(平成5年 第1刷) 

 
まず書き手の松本宏さん(大正6年生)が冷静にあの数年の事を書いておられるのが今読んでも偉いな〜と思います。
それは、松本さん自身が、シベリア体験といえば「酷寒、苛烈な労働、飢餓の三大苦」、どれだけ嘆き怒っても体験した者でなければ伝わらない。それよりも、なぜこのようになったのか、この根源を突き止めなければ死ぬに死ねないし、これを解明しておくことは、「戦争とは何なのか」「国家と国民とはどんな関係なのか」、具体的には「いざという時に国家機構は国民をいかに扱うか」を考える基本となり、後世の人々のあり方に役立つもの」と考えて来られたからです。

昨日のNHKの番組でも取り上げられていた民主運動について松本さんは「日本人自らの手によって起こされた」と断じておられます。「あのような民主運動によって出てくるのは、ソ連に良い顔をして、自分だけが楽をして早く帰ろうとする要領の良いオポチュニスト(日和見主義者)であった。結論的に言えば、あのような過激な民主運動からは、真の民主主義は育たないことはソ連としても知っており、決して自己のためにならないと考えたであろうから、そのような教育をするはずがない。ただ、その運動のため労働能率がよくなれば自国のトクになることであるから、何もいわなかったのであろう。だから、これは日本人捕虜側自らの手で起こされたというほかはないと断ずる。その証拠には、ドイツ人捕虜においては、あのような民主運動はなかったと聞いているからである。」(P262)

そして考察を深めて、「日本人の処世観と軍隊、シベリヤ捕虜」というところで書いておられることを私も番組を見ていて思い出しました。
この項は全文引用してご紹介したいくらいですが、端折りながらの引用で:(結局長くなりました。引用飛ばして読んで下さい)

 私は太平洋戦争の末期、兵隊にとられて満州で初年兵生活を送り、最後は敗戦に会いシベリヤ抑留生活を体験した。この二つの生活の中で、我々日本人の心の中には何か共通の処世観が流れているように思われてきた。
 それは、「上に弱く下に強い」「大勢に従う」ということであり、下賤に言えば、「上にはおべんちゃらで、下には威張る」「皆がやるからオレもやる、みんなで渡れば怖くない」、さらに、「お上の威光をかさに着て下をいじめる」という精神である。 この処世観は、何処から来たのであろうか。これは日本国家の生い立ちと、その歴史からきているように思う。神代の昔から、否、有史以来、支配者の暦してあり、人民の、言葉を変えて言えば、一般大衆すなわち庶民の歴史はなかった。(徳川の天下統一、士農工商身分制度、その下の非人。・・)その将軍の上にも天皇がいるという、全くの「お上社会」であった。そして各階層のお上、俗に言うお偉方には下の者は何もいえなかった。もし、下の者が上の者に文句をつけるならば、「無礼者」ということで一巻の終わりである。
 さらに、明治維新封建制度を打破した一種の革命であるが、これも薩長両藩という封建武士団によって達成されたもので、明治政府は庶民の力でできたものではない。だから、明治維新後も完全な民主国家ではなかった。「お上社会」であり、最終的には天皇というお上がいなければ安心していられない国だった。これは戦後の現在でも変わっていない。


 この日本的気風は、小さく言えば日本陸軍(本質的には海軍も同じ)の、あの悪名高い内務班生活を生み、大きく言えば日本の敗戦をもたらし、日本国民に大きな不幸をもたらした。
 明治時代は、たとえ受動的であったにせよ、新しい自由民権思想が出てきていた。しかし、その後、日本の政治家たちは、自己の政治をやりやすくし、大衆に文句をつけさせないために、忠君愛国思想教育に意を注ぎ、上に文句を言うのは不忠だと教え込んで国民の思想改造に成功した。天皇の名をかさに着た軍部は、この思想を利用して国家の実権を握ってしまったのである。
 もっとも、これに抵抗した活動家もたくさんいたが、軍部に楯突くものは不忠の輩として弾圧されてしまった。がしかし、日本の一般政治家たちは、武士すなわち軍人は一般人より上という「お上思想」により、たった一握りの軍人に対し何らの抵抗もできず、勿論、一般大衆は「お上」に逆らうことはなく軍部に独走を許し、満州事変、日中戦争から太平洋戦争を引き起こし、国民に塗炭の苦しみを味合わせたのである。

 軍隊での「お上思想」は野間宏の「真空地帯」、五味川純平の「人間の条件」に出てくるような、あの古参兵や下士官の新兵にたいするいじめ、殴り、ピンタの私的制裁に象徴される。上には何も言えず、オペンチャラを使わねばならぬ不満を、何も手を出せない下級兵士にぶつけたのである。
 全く手を出せない相手を殴ったり、いじめたりしている者の心は何だったのか。これも「みんなでやれば怖くない」精神からでたものであろう。また、将校連中も見て見ぬふりをしていた。これも、「お上」が認めているから余計な事は言わないという「お上思想」から出たものであろう。


 昭和20年8月、ソ連が参戦、満州に侵攻、張子の虎の関東軍はコテンパンにやられて敗戦の日を迎えたが、その日から関東軍にとっては天皇に代わりソ連が「お上」になった。だから、関東軍司令官はじめ幕僚連中も、ソ連には何もいえず、関東軍は上は軍司令官から下は一兵卒に至るまで全員捕虜になり、シベリヤまで、連れて行かれた。もっとも、うまく逃げた者もたくさんいたが。
 シベリア連行は完全にポツダム宣言違反である事は明白だが、軍司令部の連中も、日本政府もこれに対して何も言わなかった。今度は宿敵ソ連が一転「お上」になった。


 昭和21年の春の民主運動についは「日本新聞」なるものが配布され、自然発生的に「友の会」的運動が起こってきて、捕虜集団の運営も旧軍人階級支配体制から選挙による民主的運営に変わってきた。文化活動も盛んになり、はがきによる内地の実家との情報交換も実現するに至った。しかし、捕虜の最大関心事である、自分はいつ帰れるのメドは全然つかない。
 そして、食、住、作業の問題が落ち着くにつれ、内地帰還、すなわちダモイの問題がクローズアップされてきて、昭和22年の終わりごろから、旧軍隊の下士官兵のうち、気の利いた者が「お上」であるソ連側のご機嫌を取り、友の会という民主組織を「反ファシスト委員会」と改めて民主運動と称するものを推進するに至った。
 具体的にはソ連側に媚び、「働かざる者は食うべからず」「よく働いた者は先に返す」、逆に、「働かない者は反動である」「反動は帰さない」「将校は天皇制のために働いたから反動である」「最初に民主運動をしたものはプチブルであるから反動である」などと叫び、自分の仲間である捕虜を労働に追い立てる。また吊るし上げなど狂乱の限りを尽くした。これに対しソ連側は、自分たちにトクになることであるから別に止めはしなかった。


 さて、私は昭和23年5月、内地に帰還したが、まずその目に写ったのはコカコーラなるアメリカの飲み物の氾濫と、ケバケバしい服装の女たちがアメリカ兵の腕にぶら下がっている姿であるが、さらに悲しかったのは、日本国政府アメリカ、GHQに対する卑屈な態度である。敗戦の前まで「鬼畜米英皆殺せ」と叫んでいたのに、なんたるざまか。敗戦国として占領国に対し従うのは当然であるが、その従い方の卑屈さに腹が立ったのである。
 これは、かつての日本帝国と満州国の関係の逆であるが、満州国やその国民の場合は従順に従っていても、それは表面だけで、心の底では「今に見ておれ」という感じがしたが、日本とアメリカの場合はそうではないようだ。心から、「米国さまさま」の感じなのである。
 すなわち、終戦と同時に天皇に代わってアメリカ、具体的にはマッカーサー元帥が天皇の上の最高の「お上」になったのである。そして、政府も政治家も、マッカーサー元帥のご機嫌取りに忙しく、我々がシベリヤに抑留されていることなどを忘れてしまい、ほったらかされてしまったのである。だから、昔は総理大臣になると、かならず伊勢神宮に新任報告のための参拝に行ったが、今ではアメリカ大統領様へご挨拶に伺うのが慣例になった。つまり、米国大統領の方が天照大神より上になったわけだ


 あれから45年経ったが、この関係は何も変わっていない。・・・軍事力は絶対許さぬと平和憲法を作らせて置きながら、東西対立の冷戦状態となると、警察予備隊さらに自衛隊なる実質軍隊を作らせ、自国軍隊の手先に使おうと自ら言ったことを自ら破っている。

今や敗戦後45年も経っているのである。これが本当の独立国なのか。アメリカの属国と同じではないか。もっとも、完全に独立しようと思っても、国内には米軍がいるし、また石油や食糧の輸入を押さえられては、電気、ガス、交通機関もすべて止まり、また、国民全員飢え死にということになりかねないので、どうすることもできない。
 こういう状態に対して、日本の国民は何も考えていないようである。もっとも、考えていても、ものを言い、行動を起こさなければ何にもならない。
 ところで、次の時代を担うべき若者たちは何を考えているのか。将来の日本の危機を感じるのは私だけであろうか。
 いずれにせよ、すべてのことは「お上思想」に起因すると思い、なんとなく悲しい。(平成3年1月10日)

 長くなるのでバッサリ省いてと思いつつ、どの文も、どの文脈も省く事ができないでほとんどそのままになってしまいました。復員者が元の会社に戻れなかった事について、松本さんは「ソ連の赤化思想による洗脳教育」という噂を利用して人員整理をしたのであろうと書いています。
 「民主運動」については番組とは違って、一度目は自然発生的=自発的、二度目は日本人側からオモネて(ご機嫌取り)と断定されています。
 私はスターリンを讃える日本語1万字以上の金糸刺繍のプレゼントは強要されたのではなく日本人側からのもので、いかにも当時の天皇制下の「日本的」、現在の「北朝鮮的」発想と表現だと思います。ソ連側からの切っ掛けはあったとしても、あそこまでエスカレート(吊し上げがひどくてソ連側が止めに入ったくらいだと番組でも)したのは、やはり、その場で体験して「お上思想」と見抜かれた松本さんの方が当たっているように思います。(番組で証言されるのを聞いていて、まるで中国の「文化大革命」で紅衛兵がやったことと同じという思いも。)
「密告」と番組では言っていましたが、全体主義に密告は付き物。社会主義国家体制の下でも天皇制の戦時下の日本でも、ナチスドイツでも同じでした。「非国民」とレッテルを貼られれば、家族も親戚も肩身の狭い思いをしました。「長いものには巻かれろ」意識も強かったように思います。

松本宏さんは、「以上のように、シベリヤ抑留の悲劇は捕虜自らの手により悲惨さを倍増させたと思うのである。しかし、私の軍隊経験や捕虜経験からすると、日本人の心の中には、「いざという時には、このような状況を醸し出す何ものかがある」ように思えてならない。いずれにせよ、もし、日本人捕虜自体が一致団結して、真の意味で民主的なあり方で自分たちを処しておれば、その犠牲者は少なくとも三割、多ければ半分くらい減ったであろうと思い、筆を擱く次第である。(平成3年4月10日)([再びシベリヤ捕虜の総括」(P263))」と結んでいます。


NHKスペシャル「封印された原爆報告書」
8月6日に放送されたこの番組では、その「お上思想」を如実に物語る内容でした。被爆者の救済より被害の実態を克明に調査する事に熱心で、求められもしないのに心証が良いだろうという理由でアメリカに英訳してまで報告した日本政府の姿は、松本さんがこの本で「鬼畜米英が敗戦を境に一転してアメリカ・GHQが「お上」になった」ことを証明しているようです。

 番組では、被爆者2万人のデータを181冊の報告書にして、被爆者のために生かすことなく(日本国内での公表は一切せず全部)アメリカに渡した日本の思惑を追求していました。

 その年、20万人を越す人が亡くなる。陸軍省医務局の調査は2日後から調査をはじめ、1300人を超す医師・科学者が関わった国家プロジェクトであり、2年以上かけ181冊、1万ページの放射線による影響の調査報告書を日本が翻訳までしてアメリカに渡している。
 アメリカの公文書館の記録にその手がかりがあった。渡された相手はアシュレー・オーターソンというマッカーサーの主治医であった人。当時最年少の医師だった人物に会って事情を聞くと、「日本側から報告を提出したいという申し入れがあった。原爆投下直後からの貴重なデータを集めてくれた。被爆国にしか出来ないことだ」と日本側の協力姿勢を感謝。

 当時、大本営に所属する陸軍軍医少佐の三木輝雄(94歳)さんは「占領軍との関係に配慮した日本側の意思の表れ。早い方が心証が良いとの判断。」「何の?」という問いに「731部隊のこともあるでしょうね」。人体実験をしたり、生物化学兵器で毒薬を作っていたという疑いをかけられていた部隊のことで、「戦後すぐ証拠を隠滅せよと命令された。」「アメリカと新たな関係を築く為に・・・」「(原爆の)威力は誰でも知りたいもの、(調査報告書は)有力なカードだった。」と答えました。「原爆を落とした国と落とされた国の利害が一致した」という番組ナレーション。

 
 東京大学の都築正男教授はアメリカの調査団の意向を受けて被害調査に力を入れた。
もっとも必要なのはどれだけの範囲の人間を殺せたかであった。17000人の子どもを、70箇所で、何人死んだかが調べられた。1km以内132人中50人、0.8km以内560人全員。学徒動員が殺傷能力を確かめるサンプルとなった。
 佐々木妙子さん(77歳)は当時1年生、建物疎開に動員されて、175人が屋外で被爆。108人が死亡、67人が重傷であった。
オーターソンがこのデータに関心を持ち、アメリカ陸軍病理研究所が日本の資料をもとに「原爆の医学的効果」を17000人の子どものデータから得た。
爆心地からの距離と死亡の割合を表す「死亡率曲線」がアメリカの核戦略の礎となった。この「死亡率曲線」こそ「革命的発見」であり、原爆の「驚異的殺傷能力」を表していて、「日本人の協力の賜物」であると称える。
この曲線を基礎に空軍は必要原子爆弾のシュミレーションをする、「モスクワー6発、ウラジオストックー3発、スターリングラード・・・・」と。アメリカの核戦略に日本人の手による調査が利用された。佐々木妙子さんは見せられた「死亡率曲線」を前に、ひと言「バカにしとるよね〜」と言ったきり、手を合わせて何事か(お経?)唱えるだけ。


この181冊の調査報告書を被爆者の救済に繋がるものはないか?という目で調べた医師がいる。原爆症集団訴訟に関わっている医師である。
19才の医学生の手記を見つける。原爆投下の4日後に跡地に入り、原爆特有の同じ症状を発症、「入市被爆である。
「8月15日、熱39度5分、17日、歯茎がはれ、喉が痛む、19日、出血斑、8月6日、広島にいなかったのに、不安、30日、同じ症状、私は全く(被爆者と)同じ症状(quite identical)」と彼の日記に書かれている。これは「入市被爆」を認めないということが根底から崩れる証拠である。斉藤春子さん(享年65歳・4年前)は投下2日後に市内に入り歩き回り、59歳で大腸がんを発病。入市被爆を認めるよう裁判で争っていたが、平成19年、勝訴判決が出たのは斉藤さんの死の3ヵ月後のことだった。


この日記の主、門田可宗(よしとき)さん(84歳)は岡山倉敷で生きていた。医師が病床の門田さんを訪ねる。「日記を書いたのは山口の専門学校へ戻ってからで、都築さん、当時ナンバーワンの研究者だった、に日記を詳細につけるよう勧められた。オーターソンが熱心に手記を求めているのも知っていた。研究に役立つと思って書いた。僕が残さなければ誰が残すという気があった」。


これより、前、小野田政枝さん、当時11歳の少女は長崎で被爆、救護所に運ばれ、亡くなる何時間か前に家に連れて帰った。救護所の医師たちから声を掛けてきて、被爆者の将来の為預けて欲しいといわれ、たくさんの被爆者のために生かされるならと預けた。その後どうなったかは知らないと父から聞いていたという遺族は、解剖、標本となって日本に返還され、広島大学に保管されていた標本と対面する。標本ナンバーの記された5枚のプレパラートと。
人体に及ぼす影響を調べられたが日本の被爆者のために利用される事はなかった。

死亡率曲線がその後のアメリカの核戦略の基礎となった話はショッキングです。
日本人の「上に弱く、下に強い」という特性?も困ったものです。下手に物を言うと仲間はずれになりますし。
そうじゃなくって生きてきた人たちも勿論いましたし、います。でも、そういう人は孤高で並外れた強い人で信仰か信念の人でした。
これからは普通の人がそうでなくてはなりません。ひとり、ひとり、少しの勇気を出して変わって行くしかないですね。
PS: 松本宏氏略歴(カバーより)大正6年4月1日出生。群馬県出身。昭和14年、京都帝大法学部卒業。三菱商事機械部入社。昭和19年9月、召集により北満孫呉電信第8連隊に入る。昭和20年8月、敗戦によりシベリヤに抑留される。昭和23年5月、舞鶴に復員。昭和25年7月、三菱商事の新会社極東商事に入社。会社逐次合併により三菱商事となり、昭和50年5月、定年退職。昭和52年3月、税理士登録、現在に至る。(平成5年現在)