白井聡「永続敗戦論」って?

今日二つ目の記事です。

atプラス16

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6月の初めごろ、息子が渡してくれた雑誌があります。「戦後史の正体」の著者孫崎享氏が対談している記事があるというのです。息子は「アベノミクスの功罪」という賛成(擁護)・反対(批判)併記の第1特集のトップ記事が目当てで買ったらしいのですが。
「atプラス16」という初めて見る雑誌です。大分前に読み終えてテーブルの上に置いていたら、父が読みたそうでしたので、父の所に数日、今週戻ってきました。そこでメモ代わりに書いておこうと思って。
対談のタイトルは「第2特集 日米関係の正体」として「孫崎享白井聡 暴力としてのアメリカ―ポスト「戦後」の針路を問う時代へ」というものです。
巻末の人物紹介から白井聡氏について:1977年生まれ。文化学園大学助教。専攻は社会思想・政治学。著書に『永続敗戦論』(太田出版)、『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)、『「物質」の蜂起をめざして』(作品社)など。
ところで、今日夕方の関西テレビ「アンカー」では鳩山由紀夫元総理の中国での尖閣諸島についての発言「中国側から見れば(日本が)盗んだと思われても仕方がない」を取り上げていました。インド人コメンテーターは、辞めた人が話すべきではないという意見。森田実氏は長い解説でしたが、ポツダム宣言カイロ宣言などから、鳩山氏の解釈は可能、今の政権では尖閣問題は解決不可能、という言い方で、どちらかというと、中国との関係改善の突破口になり得る(鳩山さんというよりこの考え方が)というニュアンスが感じられました。キャスターのヤマヒロさんは腑に落ちない相槌の打ち方でしたが。この問題は、また別のところで考えてみたいと思います。(着物姿の金曜担当の森田氏と水曜担当の青山繫晴氏、全く異なる解説に山本キャスター、ついていけてない時も・・・)
さて、今日取り上げる白井聡氏は、まさに、この鳩山氏が首相時代の沖縄についての発言がキッカケとなって「永続敗戦論」という本を書き上げたのです。白石聡氏の考え・「永続敗戦論」が分る最初の部分と最後の部分を移してみます

白井 ― 3・11の原発事故の後、僕にとって一番の衝撃は、日本の権力機構や社会構造がこれほどまでに腐敗しているのかという事実に直面したことでした。杜撰と無責任の挙句こういう事故を起こしてしまった。これだけの大惨事が起きた以上、当然、然るべき人たちが然るべき批判をするだろう、と思っていました。ところが、全然そうならない。国家も財界もアカデミズムも、驚くほど不自由で、批判が許されない世界だった。自分はこんな恐ろしい国に住んでいたのかと、思い知らされました。「戦後民主主義」というけれど、そんなものは実際どこにもありはしない。このような衝撃から、『永続敗戦論』を書いたんです。
 さかのぼって考えてみると、「永続敗戦論」という少し耳慣れない概念を着想するに至ったきっかけは、鳩山由紀夫政権の退陣のプロセスでした。その点については本で詳しく描きましたし、『戦後史の正体』の中でも言及されていますが、要するに、「日本国民の願望」と「アメリカの意向」のどちらかをとってどちらかを切らなければいけないという構図になったのが、普天間基地の県外移設問題だったということです。「最低でも県外」と鳩山さんは言ったけれども、最終的にはできないということで断念した。つまり、アメリカの要求の方をより重く受け止めなければならないという結論に達するわけです。
 
 客観的には、いま言ったような構図で鳩山さんは退陣せざるを得なくなった。にもかかわらず、そのことに対する日本社会の議論は「鳩山さんは変な人だ」というふうに、政治家の個人的資質の問題に話題が収斂していきました。退陣劇の当初、僕も自覚できていなかったのですが、あとから考えれば考えるほど、これはまことに異様なことだったと思うようになりました。日本国民よりもアメリカの意向を重要視せざるを得ない日本の国家権力という客観的な構図を見ない様にすることを目的として、政治家の手法や性格の問題に関するお喋りばかりが続くということが起きたんじゃないかと。


 これは八月十五日をどう呼ぶかという問題と、ストレートにつながってきます。八月十五日は「終戦記念日」と呼ばれています。つまり、戦争は「終わった」というふうに受け止められている。しかし、当たり前ですが、自然に戦争が終わったわけじゃない。「負けを認めて終わった」わけです。ところが「敗戦」の日のはずが、「終戦」の日としか呼ばれなくなっている。この構造が、鳩山さんの退陣劇で反復されていると気付いたわけです。僕たちは「負けた」という事実を見ないようにしてきた。これを『永続敗戦論』のなかでは「敗戦の否認」と呼びました。 


 この精神構造というか歴史意識が、「戦後」という時代を最も強く規定してきた要因なんではないかと思い至ったわけです。そこをはっきり認識できたとき、日本が抱えている三つの領土問題が、出口のみえないかたちでなぜこんなにこじれているのかということも見えてきた。原発事故を必然的に引き起こすような権力の構造が実際の事故発生を通じて露呈してしまったなかで、なぜ、脱原発という方向性が今なし崩しにかえられようとしているのか。こういったことも「永続敗戦」という視点から見れば、非常にクリアに見えてきた気がしています。


 そこでどうしても考えなければならないのは、アメリカとの関係です。アメリカという存在が、この「永続敗戦」の体制とどういう関係を持っているのか。日本ではアメリカの姿が見えないようになっています正確に言えば、暴力を帯びたもの(端的には世界最強の軍事力)としてのアメリカの姿は戦後段々と縮小していく一方で、日常生活の中にアメリカ的なものが深く侵入していく。それは暴力を脱色された、豊かさの象徴としてのアメリカ、文化的なものとしてのアメリカです。勿論、こうした構図の例外が沖縄です。まさに沖縄の基地問題を通して、そこで躓(つまづ)いた鳩山政権の退陣劇を機に、「暴力としてのアメリカ」が見えてきた。TPP問題も同じことです。ここでも「暴力としてのアメリカ」がはっきりと姿をあらわしてきています。 
 

 なぜこのことが見過ごされてきたのか。戦後の日米関係はGHQによる占領政策から始まります。そこを見る際、問の立て方自体がズレていたんじゃないかと思うんです。米国が日本に対して行った戦後処理について、「そこに正義はあったのか」ということが第一義的に問われてきた。原爆の投下に関してもそうです。<省略>

・・・・・・・ しかし、そもそも国家と国家の関係に、本来的な意味での「善」だとか「正義」というものはあり得ようがない。アメリカは、最初は非常に厳しい対日政策をとって、戦後日本の生活水準を決して中国や朝鮮やインドネシア以上のものにしてはならないという方針もあったのに、日本が貧しさのために共産主義に走りかねないと見るや、方針は変更された。つまり、占領政策は道義的な正しさの追求ではなく、冷戦構造のなかでアメリカが日本をどう位置付けるかというところで決まっていたわけです。政治なんだから、ある意味で当たり前のことです。

<省略>・・・アメリカの対日政策を決定づけるのは、善意でも悪意でも、好意でも嫌悪でもありません。国益の計算と、米国内での権力闘争の帰趨によって決まります。しかしまあ、なんでこんな当たり前のことをわざわざ言わなければならないのでしょうか? 「トモダチ」なんて言われると、すぐそこに「好意」を見たがるのが日本人の習い性になってしまっているからです。

 
 もう少し歴史の話をすると、アメリカの最初の対日政策では、絶対に二度とアメリカに歯向かわない「無力な日本」が最初は必要とされていたわけです。戦争直後ですから、アメリカにとっても「恐ろしい日本」というトラウマがある。「憲法九条」もそこから構想された側面があるわけです。その段階が過ぎたあと、「親米的日本」、つまりアメリカに対して親しみの気持ちを持つ日本が必要になってくる。冷戦構造のなかでの弟分としての日本ですね。


 ところが「絶対に歯向かって来ない日本」と「親米的な日本」を両立させるのは結構たいへんです。日本国民をずっと窮乏した状態にすれば歯向かって来ない日本になるわけですが、日本人がアメリカに対して「恨み骨髄」になってしまって、親米的日本と両立させるのはむずかしい。この「ふたつの日本」の両立という難題を解決する目途が立ったのが、1960年の安保改定だったのだろうと思います。60年安保闘争にはさまざまなファクターがあったと思いますが、一つの仮説として、この本来並び立たないはずの「ふたつの日本」を両立させるというプロジェクトを日米の支配層が企んでいる、そこには何かおかしなもの、欺瞞があるはずだという大衆の感覚があったと言えるかもしれない。日本の保守政権がこの危機を乗り越えたことによって、日米関係は安定期に入った。この二つの命題を両立させることに成功したわけです

以上が、全体で31頁あるうちのとっかかりの3頁分ぐらいです。なかで触れられている本には、「日米地位協定入門」「国家の罠」「菊と刀」など。
つづいて、全体の締めくくりの白井氏の言葉を移してみます:

白井 ― 主体性という話が出て、日本社会が主体性を決して持たないようアメリカは工作してきたという話が出ました。確かにその通りなのですが、結局のところその工作に日本人の多くが自ら進んで引っかかってきたのだと思います。本当の問題は、外国の介入なのではなくて、それを進んで受け入れる日本の社会のほうにあるのだ、ということについて孫崎さんと僕の見方は一致しています。この見地に立つとき、主体性を否定しているのは、アメリカではないのです。日本人自身が主体性を持つことから逃避している。つまり、奴隷であり続けたいと願っているということです。
 今後、永続敗戦レジームが崩壊してゆく過程でさまざまな対立・闘争が表面化してくる、というか脱原発運動に代表されるようにもう表面化しつつあると思うのですが、その際のほんとうの対立軸は、人間性の本質に関する永遠の問題にあるのかもしれません。それはつまり、主体性を持とうとする人間とそれを拒む人間との対立、より具体的に言えば、リスクを負ってでも自由を求める人間と安定さえ得られるなら隷属をよしとする人間との対立です。前者の立場に立とうとする共通の意思を今日この場で確認できたことを大変うれしく思います。ありがとうございました。(2013年3月31日)「atプラス」16号掲載記事より

◎「永続敗戦論」が、8月15日を「終戦記念日」と呼んで「敗戦」を認めない、すなわち「敗戦の責任を認めない」ことにつながるという考えや、3・11以後の政治状況に、日本の「太平洋戦争」にまつわる色んなことを連想するというのは、同じような経験?をしているので分りやすいお話だったと思います。
最後の、締めくくり部分、これも結局最後は人間性というか、想像力というか、未来(子孫)の幸福より今のわが身の幸せというか、30年前の敦賀市長の「原発演説」を思い出します:「まあそんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、50億円で運動公園はできるわねえ。火葬場はボツボツ私も歳になってきたから、これも今、あのカネで計画しておる、といったようなことで、そりゃあもうまったくタナボタ式の町づくりができるんじゃなかろうか、と、そういうことで私は皆さんに(原発を)おすすめしたい。これは(私は)信念をもっとる、信念!
 えー、その代わりに100年たって片輪が生まれてくるやら、50年後に生まれた子供が全部、片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、いまの段階では(原発を)おやりになったほうがよいのではなかろうか...。こういうふうに思っております。」

現金な損得勘定だけで生きるのか、それとも、お金にかえられないものを大切に思う人間であるのか・・・
アメリカは今でも世界一の大国、日本が歯向かってろくなことは無い。それにアメリカに守ってもらっている。そのアメリカに歯向かってどうするんだ。沖縄はアメリカにとって必要。その代り日本が沖縄には税金で手厚い保護政策をすればよい。原発アメリカは日本に脱原発を望んでいない。再稼動も再処理も今まで通りでいいじゃないか。沖縄の犠牲、福島の子どもたちの少々の犠牲はがまんしてもらうしかない。沖縄の犠牲?大阪でも引き受ければいいじゃないか(維新の会)みたいなのも出てきますが・・・日本の自立とか主体性、日本人の命と健康を日本人が最優先に考えるということが出来ない国であっても、それで経済は回ってるからそれでいいじゃないか・・・・という考え方に勝てないのでしょうか・・・勝てないはずはない、と言いたいですね!

(写真は上から台所東の窓枠に絡ませた日除けのヤマホロシに咲いた花、鮮やかなオレンジ色のクロコスミア、アジサイアガパンサス、そしてグリーンの葉はコリウス、小菊のような花はブラキカム)

PS(8/23)<参考>「2013年7月3日(水)の朝日新聞・オピニオン欄」(http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi?mode=res&one=1&no=3517