狂気の中の正気・島田叡と大田實(「生きろ」から)

先日、TBSのドラマで沖縄戦の最も困難な時期に、官選沖縄県知事を務めた島田叡(あきら)を取り上げていました。
島田叡:1901年(明治34年)12月25日―1945年(昭和20年)6月27日? 島田は(旧)神戸二中、三高、東大を通じて俊足巧打の不動の1番バッター。学生野球の功労者として東京ドームの野球殿堂の戦没野球人モニュメントに名前を刻まれています。座右の銘の『断じて敢行すれば鬼神も之を避く』は、母校(現県立兵庫高校)の碑に書かれた言葉です。

沖縄戦当時の知事がどんな人物だったか知っていますか?



TBSでは8月に『テレビ未来遺産“終戦”特別企画報道ドラマ「生きろ」〜戦場に残した伝言〜』を放送する。
今も「沖縄の神様」と慕う人たちがいる戦中最後の沖縄県知事、島田叡(あきら)の実話を、ドラマとドキュメンタリーでお送りする終戦特別企画だ。
沖縄戦が始まる直前、島田は内務省の辞令で知事に就任したが、玉砕主義の中で沖縄県民に「生きろ」と呼びかけた異色の存在だった。また、プロ野球のない時代に中学時代から大学まで野球のスタープレーヤーとしても名を馳せていた。 その島田知事役に緒形直人、また島田知事を支える荒井退造警察部長役に的場浩司が決定した。「役者であれば誰でもやってみたい役」と緒形。的場も「一番大事なことは本当に魂込めて演じることです」と意気込む。
他に、陸軍の第三十二軍司令官の牛島満役に西郷輝彦(特別出演)、海軍の大田実沖縄根拠地隊司令官役に石橋凌と、名優が顔を揃えた。
また番組では、沖縄戦を記録したフィルム1000本の大半を入手し、ドキュメンタリーとして沖縄戦がどのような戦いだったかをお伝えするとともに、戦後68年経っても未だ分からないままの島田知事の最後の足取りを追う。
なぜ島田知事がこんなに県民から支持されたのか、そして支持され続けているのか…。ドラマとドキュメンタリーでお送りしました

●私自身が余り沖縄戦の最後をよく知らないので、島田知事の赴任から最後までをドラマのナレーション(由紀さおり)を辿りながらWikipediaを参考に書き記してみます。
〇1944年(昭和19年)10月10日、午前6時、沖縄上空に米軍機が現れ、延べ9時間、那覇を集中攻撃した。日本機は一機も飛び立たなかったという。那覇は9割が焼失、焦土と化した。後に10・10空襲と呼ばれる。
〇その後、前任の知事や多くの幹部職員が本土出張中に雲隠れしてしまう中、大阪府内務部長を務めていた島田が1945年(昭和20年)1月10日、沖縄県知事を打診され即受諾。「誰かに代わりに死んでくれとは言えない」と言い置いて、家族を大阪に置いたまま1月31日、着任。
〇沖縄の方言を使うとスパイ容疑で逮捕するという日本軍の差別的な仕打ちの中、島田知事は、沖縄の文化や風習、言葉や「命(ぬち)どぅ宝」という沖縄の古くからの教えを尊重し、禁止されていた歌や踊り酒を復活させる。次第に県民や警察の信頼を得、また沖縄駐留の陸軍第32軍との関係改善に努めた。特に海軍少将大田實沖縄根拠地隊司令官とは肝胆相照らす仲となり深い信頼関係にあった。

〇島田が着任後すぐ取り組んだのは滞っていた住民の疎開であった。日本軍が少ない島の北部の方がより安全だろうと北部へ。県外の熊本にも送り出している。この疎開で助かった命は10万人以上と言われている。
〇2月下旬には自ら台湾へ飛び、交渉の末、蓬莱米3000石分の確保に成功。翌3月に、蓬莱米は那覇に搬入された。
〇米軍上陸2か月前に赴任した島田について、元県庁職員だった板良敷朝基さん(95)は、「決死の気持ちでいらしたものだから、この人となら運命を共にできる、この人となら死ねる」と思ったと話す。
〇3月23日米軍が慶良間諸島から爆撃。集団強制死の悲劇が相次ぐ。捕虜になる前に自決せよ。玉砕思想が叩き込まれていた住民たちは手りゅう弾やカミソリなどで家族を手にかけた。
米軍は上陸に先駆けて11万発の銃撃を行った。「鉄の暴風」の始まりだ。4月1日米軍上陸。沖縄西海岸は、1500隻の米艦船で真っ黒に見えたという。米軍55万人に対して日本軍11万人であった。進撃を続けた米軍はわずか3日で本島を南北に分断、2週間で北部を制圧。軍と行動を共にしなかった住民は多くが捕虜となって助かった。一方、北部への道を閉ざされた住民は南部へ殺到するしかなかった。米軍の砲爆撃は地形が変わるほどだった。
襲い掛かる砲弾を避けて住民や行政組織は、壕と呼ばれる自然洞窟に身をひそめるほかなかった。
〇5月に入って、米軍の徹底的な攻撃に加えて火炎放射器やガス弾で地下陣地を破壊、これに対して日本軍は夜間の肉弾戦。少年兵にまで爆雷を背負わせて戦車に突撃させた。さらに5月4日、総攻撃に失敗。すでに主力部隊の兵力は3分の1に低下。この結果が陸軍参謀本部の機密文書に記載されている:「これにて大たい沖縄戦の見通しは明白となる。これに多くの期待をかくること自体無理」。この時すでに軍中枢は沖縄を見放していた。
〇総攻撃を退けた米軍は日本軍が司令部を置く首里に迫っていた。那覇を見下ろす高台に建つ首里城。現在世界遺産となっている琉球王国宮殿の地下に司令部はあった。32軍司令部壕は総距離1キロ以上の地下壕。なかに1000人を超える軍人、軍関係者や学徒などがいて、劣悪な環境だったという。
本来、軍はここで決戦という計画だったが、牛島満司令官は米軍が迫る首里を放棄し南部撤退を考えていた
軍が南部撤退をすれば、すでに南部に押し寄せている多くの住民が戦闘に巻き込まれることになる。「首里を放棄して南端の水際まで下がるとなれば、戦線を拡大して県民の犠牲を大きくする」と考えた島田は止めてもらうよう直訴に出かける。「南部撤退は愚策です。首里にとどまって頂きたい」。言い置いて壕を後にする島田と荒井警察部長の二人。敗北必至の惨状を伝える責務があると伝令役(ドラマでは8名)を選び、これを特別行動隊として東京に送り出す。
〇5月18日、首里西方のシュガーローフ陥落。いよいよ南部撤退が現実味を帯びてきた。軍は明確な返答を寄こさず、島田知事は何処が主戦場になるかを探り、一人でも多くの県民の命を守ろうとする。二人の願いも牛島司令官には届かず、牛島は「残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって最後の一人まで沖縄の島の南の崖、尺寸の土地が存する限り闘い続ける覚悟である」と南部撤退を決める。
沖縄は本土決戦を少しでも遅らせるための捨て石であった。沖縄住民の命を全く考慮しない決定に島田の衝撃は大きかった。
〇県庁・警察部も、南部撤退に備えて移動を迫られた。5月23日、住民の避難誘導のため南下開始。南へ南へと逃避行続く。6月5日、轟の壕へ着く。
6月9日、轟の壕にて、島田知事訓示。「今を持って警察部を含む県庁を解散する。これからは自由です。自分の命を守ることに尽くしなさい。沖縄のためにも皆生きながらえてほしい」と。
〇翌日、陸軍と行動を共にするため島田知事は壕を出る。その時出会った少女は、「いいかい、米軍は何もしない。必ず手を挙げて出るんだよ。決して友軍と行動を共にしてはいけない、いいね」と島田から声を掛けられる。その時、お国のために死ぬことが当然と思っていた少女には、島田の言葉の意味が解らなかった。「一人でも住民を生かそうという言葉の意味が解るようになったのは、今になって」と山里(旧姓井波)和江さん(2008年取材当時82歳)は言う。
6月19日、摩文仁の司令部に近い軍医部壕で、2日遅れてたどり着いた荒井警察部長は島田知事と再会する。二人は司令部に呼ばれて「南部撤退」を決めた牛島司令官と最後の会談を行った。
6月23日、牛島司令官と長(ちょう)参謀長の二人は自決、これで、沖縄における組織的戦闘は終わる。この時点までの犠牲者約9万人のうち、半数以上が南部撤退の巻き添えであった
島田・荒井が送った警察特別行動隊は一人だけが本土にたどり着き、沖縄の実情を話して周囲を驚かせた。

〇もう一人沖縄の実情を伝えた人物がいる。大田實海軍司令官だった。「世界の戦史に例のない電文」として知られる軍人らしからぬ報告を打電させたのは島田知事への格別の思いであった。

この電報は『当時の訣別電報の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉はなく、ひたすらに沖縄県民の敢闘の様子を訴えている。この電報を読んだ井上成美海軍大将が感動して、終戦運動を激しくしたと言われる』。この井上成美海軍大将というのが、先日(8/4)記事にした脚本家の早坂暁氏たちに、「お前たちは戦後どんな日本をつくるのか必死に考えろ」の訓示をした海軍兵学校の井上成美校長です。
では、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」で結ばれる電文の全文を現代語訳(Wikipediaより)で:

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。


沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。


しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けているその様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。


つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。


沖縄県民はこのように戦い抜いた。

県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

〇6月6日打電された。この打電の1週間後、6月13日、米軍の攻撃により司令部は孤立し、大田は豊見城にあった海軍壕内で拳銃で自決した。
〇島田が県庁解散を宣言した轟の壕、大きな天然の洞穴、絶え間なく水が滴り落ち、壕の地面は濡れて、水は轟音を立てて流れになっているので名前がついたという。
戦争末期、日本軍の秩序は乱れており、日本兵は恐怖で沖縄住民を支配した。敵兵に見つかるからと子供を泣かせぬよう脅し、泣きやまぬわが子の口におしめを突っ込んで窒息死させた母親。子どもから黒砂糖を取り上げ、取り返そうと飛びかかった子どもを銃で撃ち殺した日本兵。「軍隊は住民を守らない。」 ― 沖縄が得た教訓です。
〇そんな中、自ら身を挺して住民を守った例があります。佐藤喜一特高課長。島田と5か月を共にし、一人でも多くの住民を助けることに力を尽くす姿を真近に見ていた人物です。
米軍が焼き払おうとしていた壕でのこと。日本軍は住民の投降を許さず。佐藤の義理の息子が伝え聞いたところでは、佐藤が日本軍と共に残ることと引き換えに住民が暗黒の壕から解放されたという。6月25日のこと。その時の映像がある。600人が救出された。しかし、佐藤は出てくることは無かった。日本兵に殺害されたという。

〇県庁壕で共に過ごしていた上原徹さん(84歳)は、「黒砂糖を下さって、身体を大事にしなさいよ」と島田に言われ、「生きなさいよ」という意味だったと語る。

〇玉砕主義のなかで、生き抜くことを願う揺るぎない島田の信念。島田は「西郷南洲翁遺訓及び遺文」を携えていた。
その中の言葉、「至誠」=生を尽くすことが大事と悟っていた、信念あってのこと。
〇島田・荒井を見送った永田紀春(91)は、「玉城の方に行かれてください」「じゃ、先に行ってます」が最後の会話で、会えなかったという。
〇島田と荒井の二人をよく知る人がハワイに住んでいる。ドラマにも出てくるよし子さん、荒井の世話係をしていた上地(旧姓具志)よし子さん(87)。壕から出て行く別れ際に、「島田さんと荒井さんの二人が両肩に手を置き、島田さんが小さなミルク缶を渡して、これを舐って生きなさい、むやみに死んじゃダメだって、自分の身体を大事にしなさい。『命どぅ宝』って言葉が沖縄にあるでしょうって」。

〇1951年(昭和26年)、かつての島田の部下の県庁職員が先頭に立って、島田と荒井の終焉の地と思われる摩文仁の丘の元医部壕があった近くに、島田をはじめ死亡した県職員453名の慰霊碑として、「島守の塔」を建立した。
「これほどまで大事にしてくれていることはありがたい」と妻は語っている。
〇出身校の兵庫県立兵庫高校時代や三校・東大で活躍した野球選手としても、沖縄の高校野球の新人戦優勝杯の島田杯として名を残している。高校の後輩たちも激戦地の後を訪ねる旅を毎年続けている。
〇毎年、6月23日には島守の塔の前では慰霊祭が行われる。元県庁職員で地元のボランティア団体「島守の会」の事務局長の女性は、「知事をふるさとに帰してさしあげたい」と、また、兵庫高校の卒業生たちも、「人間が生きることを戦時でも冷静に見ることができた方だった」「我々が語り継がなければ消えていく」と話し、まだ見つからない島田の遺骨を探している。
摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」の20万人余の名前のなかに島田の名前も刻まれている。(終わり)

◎参考:2008年にドラマ化された作品について:第12回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『悲しいほど海は青く〜沖縄戦最後の県知事 島田叡〜』 (制作 沖縄テレビ放送)
コチラで:http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/backnumber/12th/03-185.html