モートン・ハルペリン氏と沖縄、そして若泉敬氏


このところ毎日、ジンジャーの花が次々と咲いています。
一日花で、咲いた花はその日のうちに萎れてしまいますが
ツボミがたくさんついていますので毎日のように新しい花が咲いています。
強い香を放ちながら咲いている花の色の白さが際立っています。
さて、「琉球新報」にハルペリン氏の記事を見つけました。
ハルペリン氏といえば「ツワネ原則」で今年5月に取り上げた方ですが(<「秘密保護法は21世紀中最悪の法律」元米NSC高官モートン・ハルペリン・・・IWJ緊急インタビュー>(http://d.hatena.ne.jp/amadamu/20140510/1399693384))、私は、どうしても沖縄密約の密使・若泉敬氏の交渉相手としてのハルペリン氏を思い浮かべます。
NHKの番組「密使 若泉敬 沖縄返還の代償http://d.hatena.ne.jp/cangael/20100731/1280578806)から:「交渉相手であったモートン・ハルペリンが証言している通り、基地の自由使用を認めるためのカードに核問題を使った日本は核問題にナーバスになっているので、他の問題で譲歩を得られる、アメリカ側の要求の受け入れ条件に使えるとしてアメリカは本来の目的:アジアの戦争のために沖縄の基地を自由に無期限に使用できるようにした」のです。
20年後、アメリカでは情報開示で沖縄密約はオープンになりました。一方の日本はダンマリです。そこで、当事者だった若泉氏は国会に呼び出されることを覚悟でいわば”国家の秘密”を暴露する書物を著しました。しかし、日本は、政府もマスコミもスルー・完全無視です。
変わらぬ沖縄に自責の念に駆られた若泉氏はうつ状態になり、一度は自決の覚悟で沖縄にも渡りますが果たせず、結局故郷の福井で自死を遂げます。これらの経緯をハルベルン氏はきっと全部ご存知ではないか。あの時、沖縄の復帰が日本自立のために不可欠と努力していた若泉氏と直接交渉した当事者であり、その後の自民党の沖縄に対する政策とそれを良しとしなかった若泉氏のその後のことを知った上での、このところの安倍政権への苦言であり、批判ではないかと、私は想像しています。

辺野古新基地建設

「海の美しさ、米へ伝えたい」 ハルペリン氏、辺野古視察
2014年9月19日

辺野古沖を視察し、海の美しさを体感するモートン・ハルペリン氏(右)=18日午後、名護市辺野古沖)



 沖縄返還交渉の際に米政府の交渉担当者を務めたモートン・ハルペリン氏(76)が18日午後、辺野古への新基地建設に反対する市民の船に乗船し、埋め立てが計画される周辺海域を約1時間かけて視察した。視察後、ハルペリン氏は「この海がいかに美しいか、そして海をこのまま保護したいという地域の思いを米国に伝えたい」と強調。その上で「ここに移設する以外に方法はないか、しっかり考えないといけない」と述べ、新基地建設以外の方法を模索するべきとの認識を示した。


 ハルペリン氏は辺野古漁港で稲嶺進名護市長らの歓迎を受けた後、新外交イニシアチブの猿田佐世氏と乗船。透明度の高い海を見ながら「この美しい海を壊す前に、基地建設が与えるダメージについて日米両政府はしっかり考えないといけない」と静かに語った。


 乗船後は終始にこやかだったが、制限区域を示す浮具(フロート)に近づくと頬がこわばった。米軍普天間移設の歴史や現在の抗議の様子の説明に真剣な表情で聞き入り、「返還交渉をした当時を思い出す」と感慨深げに語った。辺野古沖の平島に集っていたカヌー隊の市民ら十数人が手を振って歓迎した。  <後略>

◎全文はコチラで:http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-231814-storytopic-271.html

★今年5月の「特定秘密保護法」について上記IWJインタビュー記事のハルベリン氏の発言です:

ハルベリン氏は、昨年12月、ハルペリン氏は自身が上級顧問を務める「オープン・ソサエティ財団」を通じて、「21世紀に民主政府によって検討された秘密保護法の中で最悪なものだ」痛烈に批判した。

ハルベリン氏をして「21世紀最悪」とまで言わしめるこの法律の問題点とは何なのか。

ハルペリン氏は「まず政府職員以外の一般人への罰則があるところ

一般市民が信頼できる第三者機関がないこと

情報が特定秘密に指定されるプロセスが曖昧であること」などを挙げた。

◎そして沖縄密約と言えば西山事件です。当時この密約の交渉に関わったハルペリン氏は、「日本政府からの基地負担の支払い(肩代わり)を隠したかったのは米国政府ではない」と断言した。日本政府が秘密にした理由について、「安全保障上の問題ではなく、それが明らかになった時に国民から批判されるのを恐れたため」と指摘した(同じくインタビュー記事)。


◎先日読み終わったロジャー・バルバース著「もし、日本という国がなかったら」の中にも、若泉敬氏が出てきます。
著者が日本に住む手助けをしたのが当時30代の京都産業大学の若泉氏でした。そして、著者は「良心の日本人、若泉先生の死」という項目で沖縄との問題を取り上げています。
ここでの密約は、「日本に復帰後の沖縄に核兵器の持ち込みを認める文書」で、日本の非核三原則を侵害することになります。その後の沖縄が、若泉氏の望んだ方向ではなかったことに心を痛め、1994年「他策ナカリシヲ信ゼムント欲ス」を出版します。
その全19章、600頁の本には、秘密合意に関する彼の本心だけでなく、日本の未来についての彼のビジョンも、心ゆくまで述べられています」。「ぼくは彼を心から尊敬しています。彼の行動は、日本人の長所を良く表しています。つまり、自分のおかしたあやまちと向き合い、それを自分の過ちだと認め、罪を償う為なら、自己犠牲もいとわずに、どんなことでもする、ということです。悲しいことに、彼はあやまちを悔い改める手段として、命を絶つことを選んでしまいました。日本は良心ある立派な人物を失いました。僕は大切な、親切で素晴らしい友人を失いました。」(ロジャー・パルバース
◎さて沖縄密約は政権交代後の民主党政権によって情報公開されました。バルパース氏はこう書いています:
2010年3月9日、岡田克也外務大臣(当時)に任命された諮問委員会が、1960年の日米安保条約改正と1972年の沖縄の日本復帰とに関して交わされた日米の秘密合意について、調査報告書を公開しました。それによって、秘密合意には、日本の非核三原則と明らかに矛盾する内容が含まれていたことが明らかになりました。」「非核三原則とは1971年の国会決議であって、法律化されることは一度もなかったが、その内容は日本が核兵器を『持たない、作らない、持ち込ませない』というもの。この原則と矛盾する秘密合意は2つあり、1つは核武装した米軍の軍用機と軍艦の日本への入港を許可した1960年の合意、もう一つは沖縄の日本復帰にともなう同県への核兵器配備に関する1969年の合意でした。」「情報公開の後、歴代の自民党出身の首相たちが、その件で曖昧な答弁をしていたのは『国のことを思って』のことだ、などと競って言い訳を始めたので、疑惑の色はますます濃くなりました。」(57頁)

◎「安保とその時代」第4回「愚者の楽園へ 〜安保に賛成した男たち〜」http://d.hatena.ne.jp/cangael/20100921/1285054403