「反軍演説」と戦後の斉藤隆夫(「英雄たちの選択」)<4>

昭和15年(1940)2月2日. 第75回帝国議会。いよいよ、”ねずみの殿様”、斉藤隆夫が登壇する。まず日中戦争の実態から説き始める(肉声で):

外の事ではない、此の事変を遂行するに当たりまして過去2年有半の長きに亘って我が国家国民の払ひたる所の絶大な犠牲であるのであります。即ち遠くは海を越えて彼の地に転戦する所の国民が払ひたる生命、自由、財産、其の他一切の犠牲は此の壇上に於きまして如何なる人の口舌を以てするも、其の万分の一をも尽くすことは出来ないのであります。
此の現実を無視して唯従に聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界平和、其の如き雲を掴むやうな文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るやうなことがありましたならば、これは現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない。」

議場は怒号につつまれた。このとき議長が書記にメモを渡した。「聖戦、美名云々」のくだりを速記録から削除するようにとの指示だ。
伊藤氏:「逸脱してるんですよ、あのときは。大義名分のない戦争だと云っちゃったんですよね。そりゃ、やってる方はさぁーお前のやってることは何の名分もないよと言われてる。」
野次に構わず斉藤は続ける:
或る有名なる老政治家が演説会場に於いて聴衆に向かって、今度の戦争の目的は分からない、何の為に戦争をして居るのであるか自分には分からない、諸君は分かって居るならば聴かして呉れと言うたところが満場の聴衆一人として答へる者がなかったと言ふのである。」
・演説後、原稿およそ一万字、全体の3分の2が削除された。官報には削除を意味する棒線が一本ひかれている。
実際に演説を聞いた当時新聞記者のむのたけじさん:「いや、もう、胸の詰まる思いですよ。やっぱり政治家としてこの人、命がけでものを言ってるんだと。国会の場で軍部の連中に向かって、米内(よない)総理大臣に向かって、どうだと公然とやったのは斉藤しかいないよ。」「メンツ丸つぶれ、それはもう普通なら、斉藤、殺したかったでしょう
・軍部は強く反発し、斉藤の演説は波紋を広げた。異例の除名問題にまで発展したのだ。しかし国民からは斉藤を支持する手紙が800通近く届いた。民政党員から「衆議院が貴下を除名すれば、それは衆議院の自殺です」。東京府八王子市民から「良心のないものが良心を裁く・・・」

昭和15年(1940)3月7日. 衆議院本会議。「議員斉藤隆夫君に対し衆議院法第96条第1項第4号に依り除名す」。除名。
衆議院のおよそ3分の2に当たる296人が除名に賛成した。反対はわずか7人だった。欠席・棄権、144人
伊藤氏:「拍手した連中が除名したんですよ。それに軍部が裏から議員にいろんな形で圧力を加えた。帝国議会は議場に於ける発言は制限できない。にもかかわらず斉藤の演説には除名という形で対処した。」

結果的に議会は軍部の言いなりになってしまった。昭和15年の暮、斉藤はこう記している。
昭和15年を送る。本年は最大厄年なりし。議席を失し、一生の政治的基礎崩壊す
持ち株下落。一家の基礎動揺す。煩悶脳裡を去らず安眠得ざること多し。」

兵庫県出石町生家.  斉藤の心境を表した書が斉藤隆夫の親族である斉藤義規さん宅に残っている。
斉藤自筆の七言絶句に、「吾言即是万人声」=自分は国民の声を代弁したのであり、「正邪曲直自分明」=これが正しかったか間違いであったかは百年の後に必ず明らかになるだろう。」

さらに削除された部分を含む演説の全文を掲載した本も残されていた。戦争下の出版統制の下で斉藤が自ら出版したものである。本を手に斉藤義規さん「記録から削除されたということで、ひょっとしたら残らないのではないか、自分の質問が。どうしてもとどめてておきたいという思いからこういう形になったのだと思います。」

昭和15年(1940)10月12日. 大政翼賛会成立。斉藤隆夫除名の後、戦争に協力する大政翼賛会が成立。議員の多くがその翼下に入った。議会は軍部の暴走を止める術を失った。
昭和16年(1941)12月8日. 太平洋戦争開戦
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司会:演説を決した斉藤。軍の圧力もあって議員除名という結果となった。
井上:これぐらい軍部の痛い所を突いた演説は他に探しても無いというくらいの中身だから陸軍は非常に困った。建前だけを追っているんじゃなくて暴かれている。それですね、陸軍の怒りの原因は。

司会の磯田:僕たちは戦場の兵士に比べれば万分の一の被害も来ないみたいなことを言いながら演説していましたね。だから、すっごい当時者性を持っている演説ですね。議場のおじいさん達には赤紙は来ないわけですよ。だからこそ、僕たちは送られていく兵士たちに責任をもたなければならない。あの声の凄味を聞いた気がします。ただ国民の当然の権利を言っただけですよ。ところが、やられたら痛いもんですから「聖戦」という言葉を取り上げて「君はあの聖戦に反対するつもりか?」と問題のすり替えを行って除名へ持って行くわけですね。

萱野:だから政府も軍部も言われれば言われるほど答えられないわけですよね。自分たちもどうしていいか分からない。とにかく自分たちを正当化しなければという要請だけは内部にありますから、いや、これは「聖戦」なんだ、それに突っかかってくる人に対してはヒステリックに対抗するしかないという形ですね。この状況だったら暗殺されてもおかしくなかったわけですよね。逆に、除名で済んだと言えなくもない。

筒井:全体主義国家なら牢屋に入れられてもおかしくない
大橋:いまも学者の中に、このことを「反軍演説事件」と、「事件」だと捕える人もいるわけですよ。私はこれは斉藤のために言っときゃなきゃいけない、事件じゃなくて自分の気持ちを吐露してやっぱり日中戦争を政治家として止めさせなきゃいけない、議会制度を守らなきゃいけないという本当の熱情から、です。こういう演説がなければ、非常にみじめですよ、日本の議会制度は。

司会:でも、その本来は仲間であるはずの議員も除名ということには賛成するわけですよね。
大橋:取材の記者に対して斉藤は「奈落の底だよ」と言った。ここにそのショックの大きさ、結局自分のことだけじゃなくて日本の政党政治の終わりだと、私が若いときから言ってきた事がここで終わりになってしまう、まさに、帝国議会の堕落ここに極まれりと、そのショックの大きさは限りないものがあったと思います。

井上:この斉藤を除名したような人たちが聖戦貫徹議員連盟をつくり、それがずっと発展して大政翼賛会となっていく。だから、この除名が非常に大きな戦争につながっていくきっかけではある。

 もう一つ申し上げたいのは、議員7人反対した人の中に、芦田均片山哲がいます。この二人は戦後首相になります。つまり、こういう人たちがいることによって日本の議会制民主主義はかろうじて戦後すぐ復活できた。この演説に於いて非常に大きな意義を示した斉藤隆夫というのはとても大事で、日本の議会制民主主義の火を守り通すことにつながったということを認識するのは大事だと思います。

萱野:政治を考えるときに、やはり斉藤隆夫の発言、生き方を含めて非常に参考になると思いますね。政治というのは権力を用いてある決定をする、最終的には物事を力によって変えていく、こういう世界です。で、権力も武力も暴走しやすい、そこに向き合った政治家であって、そこをコントロールすること自体が近代国家の1つの課題だということをちゃんと認識していた。その意味では政治とは何かを私たちに教えてくれた

筒井:昭和10年代と今と比べて政治がどれだけ進歩しているのか。今の方が進歩しているとなかなか言いづらいところがあるし、まして斉藤のような政治家を見つけることが難しい状況の中で私たち国民有権者も政党に何かしてもらうじゃなくって、私たちは辛抱強く政党を育てていく自分の短期的利害関係であっちの政党に入れたりこっちの政党に入れたりするんでなくて、少し時間をかけてこの政党のことを育てて行こうというぐらいの気持ちを持って行かないと、なかなかうまくいかないんじゃないかなーと思うんですね。

司会の磯田:やっぱり、この色紙を見てしまうんですね。(取り出した色紙は、磯田氏が歴史学者になる前ガラクタ市で買ったという500円均一の段ボール箱の中に入っていたという斉藤隆夫直筆。江戸時代が分かればいいと思っていたところ、”こんな人もおったのか”と近代史の勉強を始めるきっかけになった色紙とか)。
 あの、斉藤は多分これを書いたとき、前後の日記を読むと短刀を送りつけられたりしていて十分殺される可能性もあったと思ったので、こういう風に言ったと思う。
請看百年青史上」=百年後の歴史の上を見てくれ、「正邪曲直自分明」=正しいか間違っているか自ずから明らかになるだろう。逆に言うとこれは百年後の日本国民を彼は信じていたわけですよ。

 政治家をどう選べばよいかー 斉藤の残した言葉を聞くと「国会議員には知識と道徳が要るんだ」と。だけど「知識も道徳もない人間が往々にして議員になってしまうんだ」と悔しそうに言うんですよ。ここは大切で、日本人はスローガンに弱いんですよ。何か言うとすぐするスローガンより、僕は自分が選ぼうとしている人が誠実であるか、ずるいことをしないか、知識と道徳を持っているか、これが大切だと思いますね。

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司会:それでは最後に除名後の斉藤隆夫をご覧ください。
昭和17年(1942)4月. 翼賛選挙。戦争拡大が一途をたどる中、斉藤除名後初めての衆院選挙が行われた。いわゆる翼賛選挙である。

東条英機内閣の下で首相の意向に忠実なものに有利な候補者推薦制設けたのだ。斉藤は推薦を受けない非推薦候補として出馬非国民と選挙妨害を受けながらもトップ当選を果たした。しかし、政治家斉藤の居場所はなかった。議会は既に機能を失っていたのである。
昭和20年(1945)6月. 斉藤は空襲に遭い、故郷出石に疎開を余儀なくされた。斉藤の疎開先に隣接する願成寺。空襲が続く神戸から逃れてきた40人近い児童が身を寄せていた。当時小学生だった、現住職(78歳)は斉藤の淋しげな姿をよく覚えている。不衛生のため疎開児童達は庭でシラミ取りをするのが日課だった。斉藤はその様子を所在無げに眺めていたという。「斉藤先生、この柱にこう腕組みをして着物姿で背中をこう柱にもたせかけて、ちょっと悲しげにじっと見ておられました。あゝ、こんなことになったなぁ〜 こんな生活を子どもたちにさせて、というようなお気持ちだったんじゃないかな〜という風に思っております。」
昭和20年(1945)8月15日. 太平洋戦争終結
地元の中学生から荒廃した日本の将来を案ずる手紙が届いた。斉藤はこう書き送っている。
新日本の建設は政治の改革から始めねばならぬ。日本は敗戦に依りては亡びない。政治の善悪に依って運命が決まるのである。  斉藤隆夫

戦後、戦争に協力した議員たちが公職から追放される中、斉藤は吉田内閣に国務大臣として初入閣。続く片山内閣でも国務大臣を務めた。
政治をもって国に尽くさねばならぬ。斉藤は79年の生涯を閉じるまで一貫して政党政治家であり続けた。

昭和15年の「反戦演説」が流れる中、番組終了)