「反軍演説」すべきか否か?(「英雄たちの選択」)斉藤隆夫<3>

さて、斉藤の粛軍演説の後も大陸では戦線が拡大し政府は窮地に追い込まれていくことになる。
昭和12年(1937)7月. 北京郊外で日中戦争勃発
首都南京が陥落、日本軍は南へと進軍した。戦線は中国各地に広がる。中国側の予想外に強い抵抗に遭い戦いは泥沼に入っていった。戦死者の数も増大。開戦からわずか半年で2万人を超えた。当時の近衛内閣は、この戦争に「聖戦」のスローガンを掲げた。
伊藤氏(日本近代史)「よく言われる『聖戦』とは、日本がアジアから欧米の植民地主義者を追放する運命を持っている、そして東アジア共同体を作るのだということですね。」
昭和13年(1938)4月. 国家総動員法制定される。この法律によって政府は議会の承認なしに物資や労働力を戦争遂行のために動員できることになった。軍事費が国家予算の4分の3を占めるようになり、国民の生活が圧迫されていった。
伊藤氏:「腐敗腐朽した資本主義社会というものを一変して全体主義的な税制経済によって生産性が上がるという幻想ですね。」

昭和14年12月7日. 一兵士から戦争の行方が不安に覚えるという手紙が届いた:「聖戦支那事変は何時終わるか見込立たず。40代の兵隊なぞ使用せねばならぬほど我国は弱って居るか不思議です」(41歳ー上等兵

2・26事件の直後に軍部の粛清を求めた”ねずみの殿様”斉藤隆夫のことを国民は覚えていた。
斉藤の回想録「回顧七十年)原稿より:「世の中には議会に余の演説を期待する者があるとみえて各方面から何故沈黙するかとの問い合わせが来た。」
日中戦争が始まって2年半、斉藤に再び軍部を糺(ただ)してほしいという声が高まってきた。軍部が議会を思うままにしている今、あえて演説を決行するか、演説を見送り好機を待つべきか決断を迫られた斉藤の心の中に入ってみよう。(二つのケースを提示)
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☆演説するべき
<2・26事件から4年、軍は未だ暴走を止めず中国の戦線は拡大、大きな犠牲が出ている。国内でも国民生活がひっ迫しているではないか。はたして戦争で国民が得られるものあるのか。ここは日本の未来のために演説を結構せねばなるまい。しかし、議会で演説すれば軍部を糾弾することになる。そうなれば、奴らも黙ってはおるまい。>

右翼組織からの圧力も日増しに強くなっていた。(背景に危険な状況を伝える昭和13年2月18日付の読売新聞紙面) 議会で軍部を追及するのは大きな危険を伴う状況だった。
斉藤隆夫の日記(昭和13?年1月21日)「右翼団員九名来訪、面会す」。斉藤は団員の言い分を十分に聞いたうえで帰したという。

むのたけじ(99歳)【新聞記者として帝国議会を取材していた):「当時の国民にとって何が怖いかというと非国民と言われること。非=あらざる国民、そういわれることが一番怖かった。あいつは非国民だと言われれば立つ瀬がないもん。非国民とは何かというと、戦争に協力しないこと。軍部に憎まれればあらゆる意味で不利益があったからですよ、やっぱり。」

☆演説すべきでない
<国全体が戦争にまい進している今、戦争に反対し非国民扱いされては政治活動も思うようにできなくなる。今は演説を見送り、論文を通して辛抱強く政府や軍部に働き掛けるべきではないか>
斉藤はこれまで議会の外でも出版物を通して世論を喚起していた。雑誌「日本評論」では、「日中戦争の遂行に当たり国民が払ってきた生命・自由・財産・その他あらゆる犠牲及び今後久しきに亘りて払わねばならぬ犠牲に照らして果たして国民が満足すべき解決を与ふることを得るや否や」と厳しく政府に問うている。雑誌「改造」に於いても、戦争の早期終結を繰り返し主張してきたのだ。
<今、私に出来ることは、論文を通じて広く世に訴えることではないか>
国民の声を代弁してきた”ねずみの殿様”・斉藤隆夫の決断の時が近づいていた。 
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司会:昭和11〜15年までを見てまいりました。井上さん、国民はどのような状況?だったんですか。
井上:首都の南京が陥ちた。これで戦争が終わったはずなのに戦争が終わらない。しかも、この戦争、いったい何のために戦っているのかよくわからない。どうすれば終わるのか、何を目的にこの戦争を戦っているのかわからない中で、国民がこんなことを続けていていいんだろうか、何とかしなければいけないといった時に、斉藤の演説が出てきた。
筒井:日中戦争が泥沼化してくると、国民に不満が募ってきた。結局、兄弟や夫が死んだ人がたくさん出てくるわけですね。静岡辺りの連隊だったと思いますが、結局亡くなった人の遺骨は駅に着くと連隊長夫人と遺族が迎えに来る。そうするとみんなが連隊長夫人に、うちは亡くなったと詰め寄って来るんですね。こうなると連隊長夫人はノイローゼになる。こういう風に国民の不満がたまった状況になってきた。

司会の磯田:やっぱりね〜中国と戦争を行うことの見通しの甘さというのがポイントであって、これは聖戦だからとか、色んなスローガンをこしらえて来てマスコミで発表して、それで政府が乗り切ろうとした、やっぱり、それはオカシイ! スローガンで人をだまそうとしてるんじゃないかと、国民はやっぱり気づいていて、それをはっきり議会で言ってくれる人を期待していたというのもあったんじゃ・・・ 

司会:皆さんが斉藤だったら演説をするかしないか? (○×の札をあげさせる)
大橋(○):日本の議会制度がダメになる。日本の滅亡につながる。日本の将来、日中戦争をどのように処理していくのか、日本の将来が見えない。滅亡に向かっているとき、ここで黙っていたら男がすたる、というか・・・
筒井(○):大事なのは、議会で行われる議論が一番大事。政党が最後に軍国主義に挑戦できたのはこの時期しかない。
井上(○):この戦争について明確な答えを出さなきゃいけないんだと、それを政府に求めて行こうという非常に合理的な態度でもあったし、何と言っても言論が政治を動かすということを信頼し続けた人ですから、このとき言わないで…と思ってた。

萱野(×):斉藤はリアリストだというのがありましたけど、リアリストとは結果に責任を持つということ。ここで演説をするということは立派かもしれないが、花と散るという事ではダメ。本当に戦争を止めることを実現しなければいけない。その時に議員として何ができたのかを考えるため敢えて×。
たとえば議会の表面に出ないところで様々な交渉を行うことによって何とか軍部のメンツを保ちながら手を打つ方法を考え出せなかったか・・・

司会の磯田:僕も萱野さんに近いかも。斉藤リアリズム、斉藤リアリストに近い気分のところにいるんで。議場の中で大演説をやるよりは、議場の内外で他の手段の働きかけを行った方が実効性があったのではと思う。何故かというと、もし議場で演説しても、ハレーションというか、反発が激しくて、本当に言ったことが周りに伝わっていくかどうかわからない。むしろ官僚あたりに働きかけて、そっちをやった方が・・・。現実問題、戦場では血を流しているわけですから、それを止める方策を現実に考えるのも議員の在り方かもしれない。
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昭和15年(1940)元旦. 斉藤は演説を行う決意を日記に記していた。
日中戦争の行方を明らかにするのだ。議会に於いて一大質問演説をなすべし」。
斉藤の支援者の間では軍部の反発を恐れる声が高まっていた。当時の貴重な証言が残っている。
斉藤隆夫の支援者・故正木定さん(昭和57年取材):「先生、もう軍部を撃つことは、やめときなれ。命、のうなってしまうで」と申したけど、「正木君、辛抱できんよ。こんなことしとったら、日本の国、どうなってしまうかわからんよ。来年はぜひ(演説を)やりたい」「もう、やめときなれ」と言って別れたのが丁度前年の秋でした。

軍の策略で組閣に失敗した宇垣陸軍大将からも斉藤の身辺を心配する葉書が届いた。「妙な方向へ進み居り候 御用心肝要に候」。(つづく)