琴奨菊と「沖縄を返せ 沖縄に」(川平朝清氏)

◎昨日は、注目の試合が2つ。一つは、オーストラリアのメルボルンでのテニス。見ていましたが、ジョコビッチのストレート勝ち。錦織圭君、まだまだ。素晴らしいサーブや見事なショットもありましたが、ベスト4の壁は越えられず。若いし、これからですね。
そして、夜はサッカー。カタールのドーハで、日本サッカー(U23) 、2:1で勝ちました。五輪出場決定です。良い試合でした。前半、早目の1点、同点に追いつかれての後半、延長戦になると明日はヨーガだから困るな〜と思っていましたが、後半戦の、最後、それも追加タイムでの素晴らしいシュートでした。土曜日に決勝戦です。
◎甘利(経済財政・再生)大臣の金銭授受問題、いよいよ明日ご本人の説明という事です。自民党のお仲間議員さんたちは、「はめられた」とか「わなだ」とか、山東明子氏に至っては「ゲスの極み、両成敗」とまで。普通、お金を渡した人が、録音したり、映像にして、証拠を残すのは、渡したお金と引き換えに頼んだことをキチンと? やってもらえない時のことを考えて・・・ですよね。甘利さん、お金だけ受け取って・・・という疑惑も残りますね。勿論、そんな話に乗ること自体が間違いですから、そんな話に応じておいて、「わな」とか「はめられた」は、言えないですね〜

◎もう数日前の事ですが、24日の日曜日、寒い日でしたが、夫は山のグループの公開ハイキングとかで京都の愛宕山へ朝早くから出かけていました。午後の紅茶にいつものように父のケイタイに電話して両親を呼ぶことに。少し遅れてきた母が、部屋に入るなり、「あれ、見てないの〜琴奨菊が優勝するかもしれないのに〜」と。この日は少し遅めで、時間を見ると5時近くになっていました。そう、そう、千秋楽よね、とNHKに。
母の御ひいきは、大阪出身の豪栄道、その後、石川県出身の遠藤が出てきてからは、こちらを応援していました。最近、二人とも、どうも元気がなく、だらだら?と見ていたようですが、今場所は、琴奨菊が三横綱を倒す大活躍。”琴バウアー”とかいうパフォーマンスも話題になって、そのうえ、綺麗な婚約者もいるとか。(「婚約者」というのは間違いで、すでに結婚されていて場所後に披露宴が控えているんだとか)。

母からの情報を聞きながら、優勝のかかる取り組みを、お茶を飲みながら、三人で見ることに。
母が言うには、贔屓のお相撲さんがいないときは平気でみられるのに、贔屓ができると相撲を見るのが怖い、胸のあたりが押しつぶされるほど勝ち負けが気になる。こんなもんなのね勝負事はと。そんなもんですね。勝ってほしいと思いながら見ていると、ハラハラドキドキしてしまいます。
結果は、31歳の初優勝という快挙を達成。最後の豪栄道戦も見ごたえがありました。トレーニングという言葉に、「稽古」じゃないの? と不思議でしたが、文字通りの筋トレだったようですね。努力は報われる。心技体充実して満面の笑みでした。おめでとう!(写真は日経と、琴バウアーはコチラから:http://rabiru.com/7374

◎さて、「shuueiのメモ」さんで読んだ川平(ジョン・カビラ川平慈英)兄弟の父親・川平朝清(かびら・ちょうせい)氏の宜野湾市長選後の記事。琉球放送のアナウンサーだったお父さん、88歳になっておられますが、「沖縄を返せ」という歌を引き合いに出して、沖縄の思いを語っておられます。荒木栄作曲の「沖縄を返せ」という歌は、学生時代、よく歌いました。
先日のNHK「新・映像の世紀」を見ながら、高校時代は1年生で安保闘争の余波、その後の米ソ冷戦、キューバ危機。そして1963年、大学進学の秋の大学祭初日がケネディ大統領暗殺でした。当然、沖縄はまだ占領下。核ミサイルが、冷戦下、沖縄に配備されていたのですね。
「沖縄を返せ」と「ベトナム戦争反対」は当時、セットのスローガンでした。神戸の港に米原潜が入ると、クラスの友達とデモに出かけていました。その時歌った歌の一つが「沖縄を返せ」で、沖縄を「日本に返せ」のつもりでしたが、川平朝清氏は、「沖縄を返せ」の繰り返しの処を、「沖縄を返せ 沖縄に返せ」と書いておられます。
(引用元:http://.hatena.ne.jp/shuuei/20160126/1453756087

沖縄はずっと苦渋の判断 
琉球放送元アナウンサー・川平さん、宜野湾市長選見つめる
2016年1月25日   東京新聞朝刊


 「政府は沖縄を分断し、苦渋の判断をさせ続けている」。米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の移設が争点となった宜野湾市長選。琉球放送の元アナウンサー川平朝清(かびらちょうせい)さん(88)=横浜市は、複雑な思いで見守った。選挙のたびに基地問題で割れる父祖の故郷。「沖縄にもう新たな基地はいらない」と訴える。 (安藤恭子

 「ここに大きな基地ができて、軍艦が泊まり、飛行機が飛び立つことになる。二百年続くという基地だ。おじいさんはどうしても止めたいんだ」。昨年十二月、大学生と高校生の孫三人を含む家族十一人で名護市辺野古(へのこ)を訪れた川平さんは、青く穏やかな海を前に、基地反対への思いを語った。


 明治期まで四百五十年続いた琉球王朝に仕えた家系の出。敗戦翌年、台湾から沖縄へ戻った。日本軍が司令部壕(ごう)を置いた首里城は跡形もなく、足元に転がる軍靴から人骨がのぞいた。一緒にいた母は「国破れて山河あり、というけれど山河もないわね」と肩を落とした。


 米兵による事件事故も相次ぎ、米国占領に対する県民の不満は高まっていった。米国留学後、琉球放送に入社した川平さんは、取材規制の中で、市民のデモや選挙での革新候補の訴えも報道した。


 一九六〇年代、あるパーティーで、沖縄の最高責任者だったポール・キャラウェイ高等弁務官と話したことがある。「琉球における自治は神話」と公言し、県民の反発を招いた人物だ。本土復帰に批判的な立場から「日本は今、沖縄にいいことを言っているが、どういう所に帰ろうとしているのか、わきまえた方がいい」と皮肉を言われ、川平さんはむっとした。


 七二年の本土復帰後も、米軍基地の全面返還という沖縄の願いはかなわない。さらに今、「世界一危険」とされる普天間飛行場の移設を理由に、辺野古への基地建設が進む。「今考えれば、キャラウェイの言葉は率直だった。本土復帰しても沖縄の自治は限られ、日本は沖縄にずっと苦渋の判断を強いてきた


 ♪われらは叫ぶ 沖縄よ われらのものだ 沖縄は 沖縄を返せ 沖縄に返せ


 六十年前の本土復帰運動で歌われた「沖縄を返せ」という歌は、辺野古で座り込む市民らに受け継がれている変わったのは、訴える相手に米国だけでなく、日本政府も加わったことだ


 「軍隊がいる所が最も危険というのが、沖縄戦の教訓。辺野古に基地ができれば、沖縄は出撃拠点として固定化してしまう。だから歌は、沖縄を、沖縄に返せと言っているんです。」

<かびら・ちょうせい> 1927年台湾生まれ。戦後の50年代から沖縄でラジオ局のアナウンサーを務め、米国ミシガン州立大大学院に留学。67年に公共放送「沖縄放送協会」の初代会長に就くなど、沖縄の放送界をリードした。72年の本土復帰とともに東京のNHKに転勤。東京沖縄県人会長などを歴任し、昭和女子大名誉理事・名誉教授。DJのジョン・カビラさん、俳優・キャスターの慈英さんの父。

◎「沖縄を返せ」というサイトがありましたので、書道作品と歌詞と米軍基地の地図をお借りします。

沖縄尚学高校の生徒が制作した「沖縄を返せ」の歌詞が書かれた書道作品=沖縄県庁内の県民ホール。
横5メートル、縦3メートルの巨大な書道作品を制作したのは、私立沖縄尚学高校書道部。12年11月、本土復帰40周年を記念して開かれた「沖縄県高等学校総合文化祭」の書道部門における書道パフォーマンスとして、「復帰」をテーマに生徒が制作。復帰について勉強を重ねてきた高校生たちが選んだ題材である。

作詞・全司法福岡高裁支部、作曲・荒木栄=1956年


     「沖縄を返せ」


♪固き土をやぶりて 民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ

我らと我らの祖先が 血と汗をもて 守り育てた 沖縄よ

我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ 沖縄は

沖縄を返せ 沖縄を返せ


2番は1番の繰り返し


◎福岡県大牟田市生まれの荒木栄(1924〜1962年)作曲の「沖縄を返せ」は、本土復帰後、一度は忘れられた歌でしたが、20年ほど経って、米兵による少女暴行事件のあった95年から、再び歌われるようになったとき、歌詞の「♪沖縄を返せ おきな〜わを返せ」の繰り返し部分が、「♪沖縄を返せ、おきな〜わへ返せ」と歌われるようになった経緯が、東京新聞の2012年の記事「沖縄を返せ−歌い継ぐ」に掲載されています。
(引用サイトの「沖縄を返せ」はコチラ:http://www.tamutamu2011.kuronowish.com/okinawawokaese.htm
◎沖縄の美ら海水族館を訪ねたとき、海の向こうに伊江島が見えました。真ん中に山高帽のような山が突き立っている美しい島でしたが、あそこにも米軍基地があると大阪に帰ってから知りました。