大正生まれの母たち

南天の赤い実とサザンカの白い花

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先日、東京にいる学生時代からの友人から封書が届きました。可愛い横書き便せんに5枚、小さなきれいな字で書かれた内容は、二人の100歳を超えた母親(実母と義母)の最期が書かれており、「大正生まれに大いなる敬意を!!」で結ばれています。

私が、たまにオペラやオーケストラの東京公演を音楽仲間と観賞するときは、連絡を取って三人で一緒にお茶を飲んだり食事をしたりしました。彼女云うところの「両手にババ様」状態から、お二人が相次いで亡くなられ、関西で学生時代の仲間が4人集まるときは「今度は参加できるからね」という矢先のコロナ禍でした。

そういえば私たちの母親は大正生まれです。大正は15年しかありません。母が大正10年生まれで100歳ですので、大雑把に言って90(91)歳から105(106)歳までの方が大正生まれということです。西暦で言うと1912年から1927年生まれの方たちということに。

この世代の特徴は若い頃に戦争を体験しているということ。満州事変が1931年ですので今100歳の方の10歳から24歳までが、これも大雑把な言い方で『戦争中』ということです。母の戦争についての数少ない話から漏れ聞いた話によると、勝っているときはみんな煽られて高揚しているので辛いと思ったことはなく、却って母のような5人姉妹の家は戦争に取られる男がいなくて親は肩身の狭い思いをしたそうです。

母のすぐ下の妹が職業軍人の将校さんと写真(彫り深い外人さんのような顔で、背が高くてサーベルを下げ、皮のロングブーツ姿)お見合いして結婚が決まり、満州まで嫁いでゆくとき、母親は出征する息子を見送るような気持ちで、玄関から一歩も出ないで見送ったそうです。18歳で、夫となる人の高校生の弟と二人で満州まで行って、その弟は独りで帰ってきたとか。叔母さんからこの話を聞いたのが金婚式の時だったかでした。

余談が長くなりましたが、その友人からの手紙に触発されて、大正生まれの母たちの生き方を考えてみました。その世代に共通しているのは、若い頃の戦争体験と戦後の物のない時代に苦労して子どもたちを育てたということです。凛としてどこか腹の座った覚悟のようなものを感じるのは、それだからか‥‥と思ったわけです。

友人の了解を得ましたので、手紙を書き移しです:

友人の実母は90歳まで大阪でお独り暮らし。お母様がそろそろ心細くなった90歳の頃、東京の住まいの近くに家を見つけたので、大阪のお母さんの誕生日が引越しの日になるよう手はずを整えて東京へ、それ以来10年少し娘の近くに住んでおられました。

   大正時代のイラストを探して見たら、やはりこんなのが:

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「蛙さん、今年もよろしくお願いいたします。

今、12/26(日)、今日のブログを読みました。「10日余りのこと書き留めておくことに…」これってなかなかできないこと、でもとても大事なことだと思います。お母様のことをしっかり覚えておくためにも、自分も含めて人の生死を感じ、考える上でも。

4年前に100歳と5か月で旅立った母のときは、全てが初めて体験することばかり。

亡くなる10日前までデイサービスに言っていた母。私も家でただ寝ているだけより、行く方が看護師さんやスタッフさんの働きかけもあるし、義母の世話もある私にとっては有難いと思い、車イスに乗って行く気になってくれる限り、週2回、10:00~16:00のデイサービスに送り出していました。

送迎の車は母一人が車イスごと乗る小型車、母の体調によって、出かける準備ができる時間はまちまち、何度か、結局おやすみしてしまうことも。でも「何時でもお迎えにいきますから、電話して下さいね」と対応してくれました。

死に近づく一番分かりやすいことは、飲んだり、食べたりが出来なくなっていくこと…

「ほとんど食べなくなってきました。レモンティーが好きで、それなら飲むと思うのですが…」と、ティーバッグと輪切りのレモンを預けて送り出しました。戻ってくると「なんどもすすめてみたのですが… ダメでした」とスタッフさん。

              <ここから先は1月8日のブログ拝見後です>

亡くなる4日前の夕方、デイサービス先の看護師さんから電話。「ちょっと これから伺ってもいいですか」「はい…」

しばらくして スタッフさんや送迎バスの運転手さんら、5人の方がみえ、「Bさ~ん、みんな待ってるからね. また 来てね~」と. 母もうれしそうにうなづいていました。「え~っ. こんなふうに来てくれることがあるの?」と.ビックリ。お世話になっていた絆を感じ、胸があつくなりました。

私とセンターとで、それぞれに母の様子を書き込んだ小型の連絡ノートは、8年間、15冊に入ったところで終わっています。

母が亡くなったのは.日曜日。

母の息がコトッと切れるのを. 私は独りで見つめていました(恐かった!)訪問看護師さんがこの先どんなふうになっていくのかを. 話してくれていましたが…

老衰で延命治療は希望しなかったので訪問診療の医師は「亡くなられたら、すぐに連絡して下さい」と言うだけでした… ぷーぷーと息をするだけの母の横で手を握り母が大好きだった高校野球の「栄冠は君に輝く」のメロディーをず――っと、口ずさんでいました。

母は、言葉で自分の逝き方を伝えることはありませんでした。でも、なるだけ まわりに迷惑を掛けず、自然に逝きたいという自分のきもちを. 静かに貫いたように思います。

 

ババ(義母)は、母の場合とは違い、最期まで自宅で過ごしました(ダンナもよくやってくれました)

亡くなる2か月前までは、タクシーに車イスを積んで大森のホテルの喫茶室に、二人でお茶タイムに出かけました。ひどい雨の日以外は、ほぼ毎日、ババにとっては、このお茶タイムが、デイサービスでもあり、点滴がわりでもありました。終わると、地下のストアでおつかい、野菜を選ぶのはババの役目、私にとっても楽しい時間でした。

ババの時は、母の経験があったので、これからどうなっていくのか…が分かる反面、辛さもありました。

食欲がなくなって…でも.また.少し食べてくれて…

その波を、何度か、繰り返し…

   二人とも「見事!」だったと思います。

 

貞子さんは、人として見事過ぎるくらい見事です!

貞子さんの望みを理解し、支えていくことを決めた蛙さんも!

 

その人その人によって望む逝き方は異なるけれど、

それが叶うということはしあわせなことですね。

   大正生まれに大いなる敬意を!! です. 」

 

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◎一寸、恥ずかしい箇所もありましたが、そのままで。

大正時代と言えば、昨年99歳で亡くなられた瀬戸内寂聴さんもそうでした。皆さん、新しい戦後の女の生き方を模索されながら、その土台は、戦中の青春時代や戦後の若い頃に培われたものだったのではと想像します。ひるがえって、その子ども世代である私たちは、私は・・・?と考えると、浮かんでくるのは、SMAPの歌の一節「あれからぼくたちは何かを信じてこれたかなぁ…」です。

(歌:SMAP 作詞:スガシカオ 「夜空ノムコウ」)