「立花隆 次世代へのメッセージ〜わが原点の広島・長崎から〜」(2)


前半は、半世紀前にロンドンで出会ったカナダ人の親友との広島での再会がメインでした。そこで、立花氏は気がかりだった手紙についてのしこりのような自責の念が氷解するとともに、ロンドンから帰った自分が核廃絶運動に大きな挫折を味わい二度と平和運動には関わらないできたのとは180度違う生き方と反核運動の成果をも知らされます。そして二人は、”被爆の現実こそが抑止力である”と一致します。後半はサブタイトルを付けるなら、「黒い屍体ではなくて赤い屍体から」となるでしょうか。それでは・・・
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広島・長崎で起きたこと、その体験こそ核廃絶や平和への原動力になる、立花さんは改めて確信した。

立花さんは、この日(2014年8月6日)、広島の大学生が企画した「はちろくトーク」という被爆証言を聞く会のイベントに参加した。被爆体験のない世代がどう記憶を継承していったらいいか考える集会です。こういう集会で被爆体験を語れる人が少なくなっている。この日、若い世代に語ったのは坂下紀子さん。当時2歳だったため被爆の生々しい記憶はない。
坂下:近所のおばさんがですね、「助けてちょうだいキミちゃん」。きみ子っていうんですけど母は。「キミちゃん、助けて」って言ってるのが聞こえて、見れば目が合って、でも、助けようがないので、火の海で。そのまま見殺しっていうんですかね、母は。その時、母は『鬼』になったそうです。探し求めていらっしゃるけど灰すら残っていない状況の中でね。こんな非人道的なことってないですよね

女子学生:自分が体験していないことを話すってことがかなり難しいことになるという風に思っていました。で、2歳で被爆した坂下さんにとっても2歳の時に被爆しているから話せないことってたくさんあるじゃないですか
坂下:被爆者しか体験は語れないではないんです。そのためにいっぱいデータがあるわけですから、それを見て自分が感じたことを次々みんなで勉強会をし合うことも継承の大事な形だと思うんです。とにかく忘れちゃいけないことだと思うんです
女子学生A:立花さん、感想をお願いします。

立花:参考にならないと思うんだけど、僕、19歳の時に広島に来てるの。それは第5回の原水禁大会というのが開かれて、それに参加するために来たんです。あのころの若い学生の喋り方っていうのは、まるで演説ね。演説の連続。
「一方的ってことですか?」 そう、一方的。それは、ものすごく馬鹿げているんですよ、今から考えると。だから、みんなが率直に語り合う、こういう感じの雰囲気っていうのはね、あの時代、まるっきり無かったんです
女子学生B:話しやすくなっているのは本当にあると思うので、そこを上手に皆がフランクに意見を言い合えるようにして継承していけたらいいなって思います。
立花:今日のこの場の感じね、若い世代は実際には全く被爆体験なんか無いわけだし、その継承ったって、そう簡単じゃないですよね。あらゆる意味で大変なんですけど、これだけ大きな集会をちゃんとオーガナイズ(組織)して、自分たちで運営して、いろんな意見、仕組んだんじゃなくて、ちゃんと引っ張り出して、これは立派なもんですよね。取材の前は本当にこれは駄目じゃないかと思ってた、でも、感心・・・と学生たちの輪の中で語る。
今の若者たちに希望を見出した立花さん、自分が次の世代に伝えるべき言葉を考え始めていた。

東京。今年1月東京文京区にある立花さんの事務所(猫の絵の黒い建物)で立花さんは故郷の長崎大学の学生に向け特別講義をする準備を進めていた。これまでに結ばれた核軍縮の条約や国際法の資料を集めてリサーチを行った。

この日、授業を依頼した長崎大学核兵器廃絶研究センターの中村桂子准教授が訪ねてきた。長崎でも被爆体験をいかに若者たちに引き継いでいくか、大きな問題になっているという。
中村:そもそも(被爆体験の)継承とは何か、あるいは、なぜ継承しなければいけないのか、継承をするということ自体、そもそものところが十分に議論されないまま、あるいは誰もそこにきちんとした目を向けずに、ただ被爆者の方が存命で話が出来る方がいなくなってしまう日が来るのは紛れもない事実だと・・・
立花:被爆体験と戦争体験とを別にして、それ独自の価値があるんですかってことになりますよね。それは、ないですよね、一体ですよね。何を問題にするのかが分からない。少し大きくとって、特に若い人はこれからの日本とか、これからの世界とか、そういう視点を抜きにして、この問題を語ることは多分意味がないという、そういう意味のなさを感じているという気がするんですよね。そこなんじゃないですか。


長崎の授業の前に立花さんは訪ねておきたい場所があった。
山口県立美術館。立花さんの原点ともいえる画家の絵がある。
立花:ここに(ロシア文字で)ナホトカと書いてある
シベリア抑留の体験をもとに数多くの作品を残した香月泰男の絵画です。


これは日本に帰る船が出る港・ナホトカを題材にした作品です。
(真っ黒な帯に見える部分には)帰国できずに死んだ無数の抑留者たちの顔が描かれている。
香月泰男(1911−1974)は31歳で出征し旧満州終戦。1年7ヵ月にわたりシベリアに抑留された。帰国後シベリアを描いた作品57点を残す
シベリア抑留は、1945年8月ソ連軍が旧満州に侵攻したことに端を発します。捕虜となった60万の日本人は敗戦後シベリアに送られ強制労働に従事させられた

若き日の立花さんは、香月さんから10日間かけて聞き取りを行い、その体験を「私のシベリア」という本にした。
「有刺鉄線を目にするたびにシベリアがよみがえる。もっとシベリアを描き続けなければならないと思う。」 
当時立花さんは29歳。まだ定職はなく、フリーのルポライターだった。
立花:生業もちゃんと持たない駆け出しのルポライター的な存在として香月さんに会って、香月さんの人生を聞き書きするものとして本を書いた。だから最初に出版された時は僕の名前をかぶせていない。けれども、あれは僕の最初の本なんです。そういう意味でね、ものすごい大きな恩義を負った存在であることは間違いない。


香月を通して戦争とは何かを深く考えた立花さん、長崎の学生に伝えるメッセージを考える上で「1945」という作品に注目しました。

描かれているのは中国からシベリアへ向かう鉄道の線路わきに打ち捨てられていた日本人の死体です。生皮を剥がれ筋肉を示す赤い筋が全身に走った「赤い屍体」。教科書の解剖図の人体そのままの姿でした。憎悪に駆られた中国人に殺されたに違いない・・・

立花:日本人はすごく悪い加害者的行為を中国人に対してしてきたから、戦争が終わった途端に手近な日本人の生皮をはぐという、そういうことが歴史的背景としてあって、香月さんは車窓から見たこれを「赤い屍体」と名付けた。日本人が凄い加害者だったという事をみんな忘れてしまっている。それが香月さんの絵をずっと描かせた一つの動機ということがあるわけです

香月泰男「私のシベリア」より:


日本に帰って来てから
広島の原爆で真っ黒焦げになって転がっている屍体の写真を見た

黒い屍体によって
日本人は戦争の被害者意識を持つことが出来た
皆が口をそろえて
ノーモア・ヒロシマを叫んだ
まるで原爆以外の戦争は
無かったみたいだと私は思った



私には
まだどうもよくわからない
あの赤い屍体について、
どう語ればいいのだろう
赤い屍体の責任は 
誰がどうとればいいのか
再び赤い屍体を
生みださないためには
どうすればよいのか


だが少なくともこれだけはいえる
戦争の本質への深い洞察も
真の反戦運動
黒い屍体からではなく
赤い屍体から
生まれ出なければならない

2015年1月17日長崎大学の学生にメッセージを伝える日の朝、立花さんはギリギリまで授業の準備を続けていた。被爆体験を次の世代がどう継承し核兵器の廃絶へと繋(つな)いでいくのか。若者たちの前でこの問題を語るのは初めてです。

立花:僕の全体験、頭の中にあるいろんなものは、どんどん劣化して古くなっている。若い連中はそれを常に更新して、あるいは更新しようとして頭の中を常にいろんなものがぐちゃぐちゃ詰まって蠢(うごめ)いている。そういう状態の脳、そこから出てくるっモノってのは面白いですね。
長崎大学
核兵器の廃絶を夢見てロンドンに渡ってから半世紀が経った。時代が大きく変わった今、若者たちは立花さんの言葉をどう受け止めるのか。

テーマ「被爆者なき世界のために〜これから自分は何をなすべきか。」
立花:事実問題として被爆者がない時代がもう目の前に来ているんです。それはどういうことかと言うと、「最後の被爆者が今日死にました」というニュースが流れる日は確実に君らの世代に本当に起こるんです。

そのことを強く実感したのは、今からだいたい10年前ぐらいなんですが、たまたま取材でロンドンに居た時に、その日の朝刊に「本日第1次世界大戦の最後のソルジャー(兵士)が亡くなった」と言う記事が出たんです。あの第1次世界大戦とダ2次世界大戦でどれくらい時間差があるか知ってる? 20年なんですね。つまり第1次大戦の最後の死者が死んだ日からおそらく約20年後に第2次大戦の最後の死者が死ぬんです。そのことが何を意味するかと言えば、あの広島・長崎の最後の被爆者が死ぬ日でも恐らくあるのです。多少の時間差はあっても、ほぼ同じようにして一連のことが次々と起こる。被爆者なき世界と言うのは事実問題として起きる、目の前に来る

その現実を迎えて我々が何をすべきか一人ひとり考えてほしい。
あの戦争、あの原爆体験はすべての人が記憶すべき対象であることは間違いない。人類史の中で起きた非常に特異な出来事があの20世紀中葉にああいう形で起きた。
その体験の中で作られた日本人の記憶が、戦後の日本をいろんな意味で突き動かしてきた。それが今でも我々の社会の中に連綿として伝わっているわけです。 だけれども、それ(原爆体験)が世界の共通体験にはなっていなくて、それを世界の本当の共通体験とするために、本当は長崎のミュージアムないしは広島のミュージアムを持って行く必要がある。そのコンテンツを持って行く、それを読む、聞く、見る、そういう体験をした時に初めて原爆とは何だったのかという事が分るわけですね。
だけど、核兵器の問題を論ずるときには、実際に、そんなの関係ない、そんなの無理だよみたいな、無力感が日本にはありますね。
ところが、ちゃんとやって国家の政策そのものを変えさせたというのがカナダの体験なんです。アメリカがソ連からのICBMを撃ち込まれるときに、途中のカナダ上空で撃ち落とすために、撃ち落とす軍事基地をカナダに置くと言う。そうすればカナダが実際の核戦争の報復を受けるという事で、(反対運動を起こし6年後には撤去させた)。
実際、いろんな意味で、無力は無力なんですが、本当に実践した国もあるということです。それほど無理だという事ではなくて、国民の気持ちをそっちへ向ければ民主主義というのはそういう制度ですから、国策がちゃんと変わる。

この時、立花さんが示したのはあの香月泰男の指摘でした。
満州で見た赤い屍体と原爆で焼け焦げた黒い屍体

立花:この問題と言うのは、どうも日本人と言うのは、あの戦争が終わった後、戦争の話と言うと日本人の黒い屍体が転がっている話ばかりして、ノーモア・ヒロシマ、ノーモアー・ナガサキみたいなスローガンを怒鳴っていれば平和が来るみたいな、そういう感じでいるけれど、それは違うんじゃないか。これは、ものすごく大きな難しい問題です
ここから立花さんは学生たちに考えさせる時間を与えた。
将来確実に訪れる被爆者のいない世界。被爆体験のない世代にできることは何か。
意見を自由に出し合い、ぶつけながら議論する。
←「被爆体験の継承をしていくこと自体やりにくくなっている気がして、やっぱり自分たちは被爆をしていないし〜実際にアメリカ人を責める気はないし〜。だからってアメリカの人たちが自分たちが加害者と言う意識があるかもわからないし〜。アメリカの子どもに被爆体験を話した時子どもたちが、アイムソーリー、アイムソーリーと言ったというけど、それってたまたまその子たちはそこに生まれただけで、だからって、そういうのって、どうなんだろう。」
←「今までは長崎だったから被爆の被害のことだけで、逆に日本がやった満州事変とか、パールハーバーとか知らないから…。多分、そういうこと知らないから被爆の面、被害の面だけを見ている自分に対して違和感が出てきて、それで余計に伝わらなくなったんだろうと思う。だから、加害の面を見るという事は多分絶対必要だと思う。」
「何で戦争に行ったかとか原爆を落とされたかとか経緯そのものを知らないで断片的に原爆だけを取り上げてもダメだと思う。」
→「私のひいじいちゃん、被爆者なんだけど、もう一人のひいじいちゃんが実際に中国に隊長として行って人を殺しているんですね。
だから思うのは、一方的な視点はダメだなって。
両方見たうえで考えることが大事なんだと思うんで、それから行動は始まっていくと思いました。」
←「同じ気持ちで何かに対して取り組むことが平和に対しても大きな力になると思った。」
原爆の問題を自分のこととして考え議論する若者たち。
立花さんは手ごたえを感じていた。
立花:本当はこれまで日本の若い世代に相当ネガティブな印象を持っていたもんで、この国はもうすぐもう一回滅びるんじゃないかとかって思っていたの。でも今日は、この国は、特に若い人はすごいという感じを持った。あの、この日本を変えつつあるような気がしました。
歴史というのは全部その時代の人々の意見の集合として決まってくるわけですから、常に歴史は動いて、その方向はまだわかりませんが、今日は、皆さんの発表を聞いてると、むしろ、良い方向にどんどん向かうんじゃないかと、そういう気がしました。
←「ここにいる学生は、たぶん、ほかの大多数の学生から見ると、ま、特別、いわゆる”意識高い系”?(笑) そういう風にみられていると思うんです。なので、伝えようと思っても、なかなか、伝えられなかったりとか、周りを巻き込むことをスゴク難しいと考えている方もいるんじゃないかと思ってて、なので、立花さんから、被爆体験、あるいは平和、あるいは全然関係なく何か人が行動を起こす切っ掛けになるためのアドバイスを・・・

立花:いろんな意味で人間は人を巻き込まないとだめです
個人的な生活もそうだし、海外に就職したり、いろんな組織や活動に参加したり、いろんな、これから大人の生活が先に待っているわけですが、そのすべてのプロセスにおいて、いかに他の人間を巻き込んで自分たちのやりたい方向に全体をもっていくか、こののちの人生の一番大事なことはこれに尽きると思うんですね。

人をどうやって巻き込むか。熱意、です。熱意しかないの。
あとは言葉の力です。言葉の力はものすごく大きいです。
言葉をより生かすためには熱意をもって語ることが必要ですね。
いろんな試みを皆さんやるんだろうけれど、だいたい失敗します
それを覚悟して、とにかく一生懸命やるということを続けてもらいたいと思います。


若者たちへのメッセージを語り終えた立花さんは自分が生まれた病院の後を再び訪ねた。
生まれた時の記憶は、結局、この写真なんですよ。」
これが自分の記憶の全部よ」。(終)