頂いたコメントのなかにあった「矛盾しているようで自然」という言葉は私たち日本人の宗教についてとても上手な表現だなと思います。
私の宗教についての思い出といえば、小学生の夏休みになると母の田舎に姉妹3人で長逗留した時の大きな仏壇です。仏間のその大きな仏壇は巾1間ほどもあって、お盆が近くなると伯父が仏具を取り出して磨きます。私は鈍くくすんでいた銅がねが新聞紙やぼろ布でペースト状の物をつけて磨くとピカピカ輝くのが面白てよく手伝ったことがあります。
我が家は大正生まれの両親が故郷を離れて単独の家庭を築いた田舎出身の都会暮らしの第一世代でしたし、新しモノ好きで合理主義者の両親でしたので、仏壇も神棚もない家庭でした。それでも、お正月には近くのお寺(これが鳥居をくぐってのお寺参りで神仏習合、お寺で神社ということは最近知ったこと)にお参りに行き、お盆には田舎でのお墓参りを続けてはいました。
ところで、永六輔さんが近くのホールで講演されたときに、学校で給食の前に「いただきま〜す」と言うのが宗教的行為なので禁止されたところがあると憤慨されていました。私は「いただきます」というのは料理を作って下さった人、家庭では母親に感謝して食べるための言葉だと思っていました。永六輔さんのその時のお話では食卓に供されたその日の食物に対して「あなたのお命、頂戴します」という言葉だということでした。そして永さんは「どうしてこれが宗教なのか」とこれまた憤慨。
「いただきます」は「あなたのお命、頂戴します」だったの!
これは素晴らしい発見でした。納得!です。そうなんです。食卓の上に載せられた今日のおかず、「牛、豚、鶏さん、魚さん、あなたのお命いただきます。大根,にんじん、白菜、キャベツ、じゃが芋、たまねぎ、モヤシにピーマン、ほーれん草さん、あなたのお命いただいて私の今日の命の糧とさせていただきます」だったのですね。
さて、日本語の「もったいない」は他の言葉に訳せないといいますが、この「いただきます」も翻訳不能の言葉の一つではないでしょうか。「さあ、お食事を始めましょう」という言い方はできますが、「あなたのお命頂戴します」には程遠い。人間以外の動物、草、木に至るまでも等しく命あるものとして尊ぶという日本的精神、「日本教」、アニミズム、自然信仰ということです。翻訳不能の固有の文化・精神に行き着いてしまいました。
ああ、孫がいたら、教えてやりたい言葉の一つです。(まだ諦めていませ〜ん)