「日本と朝鮮半島2000年」第10回〜江華島事件から日清戦争〜(3)

第10回 ”脱亜”への道〜江華島事件から日清戦争 もいよいよ最後、「脱亜論」以降から日清戦争までです。
私なりにまとめて、最後に感想を。

キム・オッキュン(金玉均)と福澤諭吉の二人が取り組んだ朝鮮王朝近代化は、甲申事変のクーデターがわずか3日で失敗したことで、その取り組みは挫折した。
スタジオで三宅アナと大桃美代子さんが日韓両氏の解説を聞く。

まずクーデターの挫折について:ソウル大の金氏は「キム・オッキュンは清から完全独立し、近代国家になるためにはクーデターは避けられないと考えたのと、もう一つはクーデターの成功を日本に懸けていた。日本の支援の約束があったのではないか」
東大の坂野氏は「それは竹添えは応えた。140人を引き連れて駆けつけた。本国政府に無断で動かせる人数ではない。せめて1週間はもってほしかったのでは。福澤の関与については微妙。一番弟子がやったことだから全く知らなかったとはいえない。白か黒かといえば真ん中。」
挫折の背景について:金氏は「当時朝鮮半島には日本と清だけでなくアメリカ、ロシア、イギリスなどの外国の列強が関心を持っていた。例えばイギリスはロシアの南下を防ぐ為1885〜87年まで南部のコムンドを占領していた。各国が互いに争っていたので安定した状況下で開化派が育たなかった。」
三宅キャスターから「あれだけ支援していたのになぜ”脱亜”?」には坂野氏が「可愛さ余って憎さ百倍。帝国主義になるというのではなくて、亜細亜から手を引く、入亜しない。英語で論文を書けば"escape from Asia"。」に大桃さんも加わって「え〜! エスケープ? 逃げる?」
金氏は「福澤の”脱亜”には、おそらく清への怒り、そして朝鮮王朝への幻滅が複合していると思う。しかし、”脱亜論”はその後日本が帝国主義化へと進む1つのきっかけになった、朝鮮侵略の理論的根拠になった、と韓国ではみている。」
坂野氏は「それは戦後日本の進歩的学者がそうとって、それを韓国の学者が読んで、そう言っている。その時代にそうだったかはわからない。脱亜論を読めば確かにそう書いてあるからそうなんだが。しかし、福澤がやって来たことをずっと見てくると前後の関係から僕のような好意的解釈がしたくなる。」

甲申事変後10年で日清戦争となる。事変後半島での日本の勢力は後退し、清が勢力を増す。1885年の天津条約で日清両国は朝鮮半島から撤兵し、出兵には事前通告が必要となった。キムオッキュンら開化派は福澤のもとに身を寄せたが、キム・オッキュンは身柄引き渡しを求められ亡命生活に。小笠原諸島や北海道など日本各地を転々とし、各地の資産家の支援をうけながら、朝鮮独立の為の活動を続け、再起を期した。
1890年第一回帝国議会で時の首相山県有朋は軍拡路線を主張、施政方針のなかで「日本の防衛線は本国だけでなく利益線にも及ぶ」とした。「利益線」とは朝鮮半島のことである
行き詰ったキム・オッキュンは朝鮮の中立、三和(朝・日・中の連携)を求めて清の李鴻章に手紙を書いた。1894年(明治27年)上海へ李鴻章に話して三国の連携を探りに行ったのか、上海の旅館で朝鮮王朝の刺客の銃弾に倒れた。独立を求め続けた43年の生涯だった。遺体は朝鮮で逆賊として晒されることに。
1895年・甲午農民戦争:農村の疲弊は深刻で穀物価格の高騰が人々の暮らしを圧迫。半島南西部で農民が立ち上がった。農民革命継承事業会の方によると「農民達は経済的収奪に危機を感じて、このままだと日本に国を滅ぼされるという意識が芽生えます。国内の腐敗や外国の侵入に対して当時の王朝がきちんと対応できなかった。だから、農民が立ち上がった。」朝鮮王朝は鎮圧のため清の出兵を要請、1894年6月清軍が半島に出動。条約によって事前通告をうけた日本も対抗して出兵、和睦しても撤退せず。
この事態に福澤は飽くまで朝鮮の内部の改革を重視すべきと主張、「朝鮮の国土は之を併呑して事実に益なく、却って東洋全体の安寧を害する恐れある」
日清両国は内政改革を巡って対立、日本軍は王宮を占領、1894年(M29年)日清戦争・8月清に宣戦布告。福澤は戦費の拠出を民間に呼びかけ、自らも一万円を拠出。日本は戦争に勝利し、1895年(M30)下関条約(日清講和条約を結ぶ。その第一条で「朝鮮は完全無欠の独立自主の国」と確認。戦争後も福澤は多くの留学生を受け入れ支援。1901年(M36)66歳で死去。その3年後、1904年(M39)日露戦争、その後、1910年には日韓併合、半島は日本の植民地となる。
さて、又日韓二人の先生の解説です。 坂野氏「1910年から遡って直線でつないでいくのは半分反対。そうやって見れば侵略の歴史になる。輪切りにして見れば壬午から甲申の4年半ほどは武力介入はしたけれど日韓が一番接近していた時代。慶応義塾の塾生よりもキム・オッキュンへの思い入れが強かったのではないか。」
金氏「二人とも近代的国民国家を作るべきという点では一致するところがあり、深い人間的関係を結んでいたと思います。しかし、西洋列強の圧迫のなか日本の侵略の意図が次第に強まるなかで開化派の勢力が充分形成できなかったことがキム・オッキュンの悲劇であったと思います」
坂野氏「日本はペリー(1853年)から維新(1868年)まで15年かかっている。政治的改革には助走の期間、長い準備期間が必要。助走が短ければ悲劇になる。」
金氏「朝鮮王朝は伝統的秩序の中で少しずつ自らの力で計画を立てて改革しようとしていた。日本の立場は急激に西洋の文物を受け入れて西洋的価値観に基づいて改革しようとしていた。この二つの差が葛藤を生んだ。開化派の活動は重要な意味を持っていたが、しかし、またこの開化派の存在が日本の侵略の論理に利用されることもあった。」
坂野氏「改革を押し付けるんではなくて援助したいと思った人が居た。それに呼応する人もいた。そういう時期があった。それに日本の政府が呼応して朝鮮政策ができればよかったが。先輩として教えてやるでは・・・また欧米の秩序=国際法の秩序が箔があると威張れるほどのものでもなく、夜郎自大(自分の力を知らずに威張る)になっていいことはないですね。」
三宅アナ「ありがとうございました。いかがでしたか?」
大桃さん「相手の立場から見た自分の姿を知らないと親しくなれない、相手の立場から見た自分を意識するだけでも違ってくると思いました」
三宅アナ「韓国併合から日韓国交回復までの近・現代の歩みはNHKスペシャルで、お楽しみに」(以上)

東大の先生が終始福澤諭吉の立場を擁護してお話されていたのが少し気になりました。福澤の立場は「学問のすすめ」の「一身独立して一国独立す」で判るように「自立した個人」という近代思想を早くから持ち、それを啓蒙して社会変革を目指すという思想家であり教育者であり、言論の人だった。政治家でも革命家でもなかった。坂野氏にはなぜ江華島事件の頃の海軍は中国と戦争をしたいと思い、明治政府はなぜ海軍の暴走を抑え切れなかったのか、というあたりを解説してほしかった。(昨年のNHKドラマ「坂の上の雲」でも伊藤博文が海軍の暴走に苛立つのを加藤剛さんが演じていました。明治のこの頃からすでに軍部の暴走を政府は押さえられずという図式が出来上がっていたのかと一寸驚きました。) その後、政府も軍拡路線に変わり、山県有朋が朝鮮を「利益線」と断ずるあたり、福澤の「脱亜論」が背景にあったのか興味のあるところです。
ソウル大の先生の理路整然としたお話には説得力があります。でも、「中華秩序の中で自分の力でゆっくり近代化を」と言われると、当時のキム・オッキュンや福澤諭吉が「風雲急を告げる世界情勢、そんな悠長なことを言ってはおられぬ」と言うのが聞こえてきそうな気もします。
唯一のチャンスだったクーデター。キム・オッキュンが日本側の公使の言葉に「日本政府が動いてくれる」という判断をしたあたり、ぬかりはなかったのでしょうか。日本政府が必ず応援してくれるよう政治的にキチンと根回しや、働きかけが出来ていたのでしょうか。坂野氏のお話では「政府が知っていて動くはずだった」、「軍艦を出すのにせめて一週間くらいもってほしかった」と言われましたし、ソウル大の先生も「支援の約束があったのでは」と言われましたが、私は疑ってしまいます。駐朝日本人公使の発言と明治政府には温度差というか考え方に違いがあったのでは? 本気で軍隊まで出して清を相手に朝鮮の近代化を支援する気があったとは思えないのですが・・・この番組だけを見て思ったことですので不勉強ですが・・・ 
歴史の見方、坂野氏の「輪切り」と「繋げて単線で見る」については、私は両方が必要だと思いました。輪切りにして見た部分が歴史という時間の縦軸の単線の中でどういう位置づけがされ、どういう意味があってその前後と繋がっていたのか、あるいは切れていたのかを見る必要があると思いました。
これでシリーズ中、抜けていた回をお正月の録画でカバーして、やっと最終回の10回まで見ました。
知らなかった隣国の歴史や、日本との関係を知ることが出来て、とても面白かったです。
その後はNHKスペシャルで放送とのことなので楽しみです。