内田樹氏と「戦後精神(伊丹十三)」

最近の内田樹氏のブログがまた快調で面白い記事が続いています。
その中で内田氏のこだわりともいうべき「戦後精神論」を伊丹十三論の中で述べています。というよりタイトル通りだと「伊丹十三と戦後精神」なんですが。
第三回伊丹十三賞を受賞したときの松山での記念講演の内容で、80分かかった内容の半分以降が素晴らしいです。
1933年5月生まれの伊丹十三氏のファンだったという内田氏が女性向け講演会に潜り込んだお話から、なぜ死後10数年経っても「伊丹十三論」が出現しないのか。その理由と伊丹とは高校生時代からの知人でもあり義弟にもあたる大江健三郎氏との関係にもふれます。それらが伏線となって後半の伊丹十三氏の60年代の著作「ヨーロッパ退屈日記」に話が及んでいよいよ「戦後精神」と伊丹十三氏が語られるのです。

その前に、同世代(半年ほど早い1932年12月)の江藤淳が登場します。内田さんはこの戦中派世代には「際立った特徴がある」と書いています。
戦中派より上の世代、実際に応召して戦争に行った世代は「ある程度戦争の実情を見てきました。だから、『天壌無窮の皇運』とか『八紘一宇』とったイデオロギーが実は無内容な空語であるということを、兵士の実感として、あるいは生活者のリアリズムとして知っていた。中でも知的な人たちは、この戦争には大義が無いこと、いずれ敗北するだろうということまで予測していた。その戦争の中をともかく生き残って、敗残の祖国でもう一度生活を再建しようと考えていた。そういう人たちにとって敗戦はリアルな経験ではありますが、さまざまな苦労のうちの一つに過ぎません」。
 一方、戦後世代は、「戦争に関して何の記憶も持っていない。従軍したこともないし、空襲を逃げ回ったこともないし、飢えたこともない。日本が民主主義になった後に生まれて、右肩上がりの経済の下で、好き放題暮らしてきた。」
 「 この戦前派と戦後派のあいだに、戦中派という集団がいます少年期には戦争の大義を信じ、おそらく20歳になる前に自分は死ぬだろうと覚悟を決めていたのが、ある日、戦争が終わる。昨日まで自分たちを鼓舞していた教師たちや周りの大人たちが、『間違った戦争が終わり、これからは民主主義の時代だ』と言い出した。『墨を教科書に塗らされた世代』」です。

戦中派の特徴は、10代のある時期まで、ひとつの偏ったイデオロギーの中で育てられてきて、そのような世界しか知らないのに、ある日、あなた方が現実だと思っていた世界は幻想でした。あれは「なし」ということになりましたと宣告されたことです。
戦前派であれば、戦争に入っていく前からプロセスを観察している。だから、「戦争以外の選択肢もあった」ことを知っている。戦争になったときに、鶴見俊輔丸山眞男加藤周一のような知性は「この戦争は負ける」と予測できた。そういう人は戦争が負けたときにも、別に天蓋が崩れるような衝撃を感じることはない。「やはり負けたか」と思うだけです。


でも、33年生まれだと、そうはゆかない。満州事変が31年ですから、物心ついたときからずっと日本は戦争状態だった。「戦争をしていない日本」を知らない。すでに始まっていた戦争を日常的に呼吸し、戦争をする国家であるところの大日本帝国の「少国民」であることを自己同一性の一番基本に据えていた。その社会で価値ありとされていたものを自らの価値としていったんは血肉化していった少年たちが、ある日、それを捨てろと言われた。「1945年8月15日以前の自分を切り離して、今日から新しい自分が始まる」といったようなアクロバット的なことができるのか。僕はこの仕事にどれほど真剣に立ち向かったかによって、この世代の人々の知的なあるいは感性的な深みは決定されたのではないかと思っています。


彼らは戦前に取り残した、おのれの半身を取り残している。少年期の経験も、喜びも、悲しみも、高揚感も、感動も、全部戦前の日本の記憶に貼り付いている。少年期に吸った空気、そこで自然だと思って取り込んできた概念や美や価値は、もう自分の中に受肉してしまっている。それを切り捨てろと言われても、それを切り捨てては、自分というものが立ちゆかない。「戦前に残されたおのれの半身のうち、戦後社会においてもなお生き延びるに足るものは何か?それなしでは自分が自分でいることのできないぎりぎりのものは何か?」それを探し出して、何とかして、それを戦後の半身に縫合しなければならない。


大人たちは「軍国主義教育はすべて間違っていた。これまで君らが習ったことは嘘だった」と言う。でも、そんな言葉に軽々しく従うわけにはゆかない。軍国少年であった少年期において自分が信じたことのうちには、本当に人間がそれを信じ抜くに足ることも、人間が生涯をかけて守り切るべきもの、そのために死んでもいいというようなものも、含まれていたはずだからです。それを戦後社会は「全否定せよ」と言う誰もそれを守ってくれない。だったら、少年たちが自分で自分の過去を守るしかない
そういうふうに考えたのが、戦中派の特徴だと僕は思います。

そして、拘りの戦中派の江藤淳の仕事を取り上げます。
< 60年代から後の江藤淳がもっとも心血を注いだ仕事の一つは戦後日本におけるGHQによる検閲の検証でした。江藤は大学の60年代にサバティカル(長期休暇)を使って、ワシントンに行き、ほとんど取り憑かれたように公文書館に通って、GHQの占領期日本における検閲の記録を精査しました。その情熱はほとんど「妄執」というのに近い。
江藤が明らかにしたのは、占領期にGHQが日本の出版メディアに対して徹底的な言論統制を行っていたことです。「言論統制が行われている」という当の事実までが言論統制されていた。だから、占領期の日本人は行き交う言論が「検閲済み」のものだということさえ知らなかった。戦時中でも、人々はメディアの言葉が「検閲済み」であり、戦争指導部にとって不都合な情報はそこには開示されないということを知っていました。でも、占領期の検閲はさらに徹底的だった。そして、日本人はそのことを知らなかった。占領軍が去ったあとでも、それについては知りたがらなかった。江藤はその欺瞞性を暴き出しました。>

僕は、この検閲研究は戦中派世代からの悲痛な異議申し立てだったと思います。「戦前においてわれわれはイデオロギー教育を受け、強いバイアスのかかった教育によってものの見方を歪められていた。だが、戦争が終わり、言論統制イデオロギー抑圧も取り去られ、ついにわれわれは自由に語れるようになった」という物語を江藤たち少年は戦後、大人たちから聴かされて来ました。けれども、そう言って民主主義の旗を振っていた人々もまた戦前のイデオローグと同じなのではないのか。日本人は、8月15日以前は軍部によって言論統制され、それ以後は、GHQによって言論統制されている民主と自由を謳歌しているつもりで、「アメリカによって検閲済みの言論」だけを選択的に語ることを強いられている。そして、それに気づかないでいるそれは、戦前に軍の言論統制に屈服したことよりもさらに恥ずべきことではないのか江藤淳はそう言いたいのだと思います。


江藤淳は彼自身の少年期の言論空間を「工作されたものだ」として全否定した戦後のリベラリストに対して、「あなたたちが自由に語っているつもりの言説空間もまたGHQに工作されたものではないか」と言い立てている。つまり、江藤が言いたいのは、「8月15日に本質的な切断線はない。日本は敗戦の前も後も地続きなのだ」ということです
江藤淳は必ずしも、そこから「だから日本人はダメなんだ」という総括的な批判を導き出したわけではないと思います。江藤淳という一人の生身の人間にとって、8月15日で日本がいきなり別の国になったわけではない。国はそのまま続いている。戦前の日本にあったものは、美しいものも、醜いものも、価値のあるものも、無価値なものも、かたちを変えはしたが、戦後日本にも生き延びている。デジタルな切断線を引いて、「ここから向こうはもう終わった時代の、もう存在しない社会だ。切断線からこちらだけがリアルで、線の向こうはアンリアルだ」と言う戦後リベラリストの健忘症を江藤は許せなかった。これもまた政治的に切り離されたおのれの半身を何とかして戦後日本の自分の半身に縫い付けようとする痛々しい外科手術のようなものではなかったのかと思います。


僕は江藤淳の仕事と伊丹十三の仕事を比べてみると、そこにひとつの共通点があるのではないかと思いました。


そして内田氏は、60年代の伊丹十三氏の著作 『ヨーロッパ退屈日記』を読み解きます。
ここからは「ヨーロッパ退屈日記」を読んでいなくても推理小説を読むようなスリルがあります。

<「ヨーロッパ退屈日記」は、ご存知のとおり、1962年から63年にかけて、ニコラス・レイ監督の『北京の55日』というハリウッド映画に、チャールトン・ヘストンエヴァ・ガードナーデヴィッド・ニーヴンなどと共演するためにロンドンに行くところから始まります。でも、エッセイは実は映画の話から始まるわけではありません。エッセイの冒頭はこの一行から始まります>からいよいよ伊丹十三氏の真実に迫っていくのですが、書かれていない事から”なぜ書かれなかったか”と考えを巡らせたり、最後に「境界線を守る人」であったと結論付けるまでの過程が読み応えがあります。
是非全文をコチラで:http://blog.tatsuru.com/2012/07/12_1036.php

私自身は戦争が終わる前年に生まれていますが、物心ついたのは戦後で戦後教育の申し子です。アメリカ製のテレビのホームドラマや西部劇、アメリカンポップスを無批判に受け入れた世代であり、現実生活では、未だ敗戦の色濃く残る日本、滝道の入り口に立つ傷痍軍人の物乞いや梅田の駅の地下で横になる浮浪児をこの目で見たり、ラジオの「尋ね人の時間」に延々と名前が読み上げられるのをこの耳で聞いた世代です。なので、心情的には戦中派の人たちに大いに共感、影響も受けていると思っています。私よりも若い内田樹さんがこの「戦後精神」を理解し拘って取り上げて下さることに有難いな、とも思っています。
内田氏がここで語っておられる「戦後精神」を理解することが、日本の戦後の特殊なあり方、戦勝国であるアメリカとの今に至る関係を理解する助けになると思っています。出来れば戦争を知らない若い方たちにも是非読んでほしいと思います。
◆写真は、曲り池から北の、歩道が増設された道路脇に残ったカンナと下はムクゲ、真ん中は二中の北側の夾竹桃、どれも夏の花です。

◎この記事から内田氏のブログを読んだ方の感想「境界を守る人」です:http://d.hatena.ne.jp/kataomoimama/20120728/p1