子ども会のソフトボールと英語

「Mwenge Keikoのつれづれ日記」さんの16日のブログ「あれこれ雑感」に英語の発音記号について書かれています。


 先週はEnglish Workshipという集中の授業をした。まだまだ暑い日が続くのに、10時半から4時10分までの3コマ分を月曜日から金曜日までの5日間をこなした。この何十年の教師生活のなかで初めての経験だったが、やってよかった。ゆとり教育の中で学生たちは、英語の発音記号を学んでいない。筆記体も学んでいない。英語を書くにもコンピュータを使って書き、実際に手書きをする機会も少なくなったので、筆記体を学ばなくてもいいかもしれない。だが、英語の発音記号だけは知っておくと、知らない単語でも辞書で確かめることができ、とても便利だ。日本語では音読みと訓読みがあり、外国人にとってはとても複雑で難しいと思うが、英語でも一定の原則や法則を学べば、だいたいの想像もつくが、それでも難しい。発音がうまくできないために、英語の勉強を諦めてしまったり、嫌いになったりする。すらすら英文が読めれば、楽しくなるはずだが、そうではないのが現状だ。(全文はコチラ:http://d.hatena.ne.jp/mwenge/20140916/1410818743


◎Mwengeさんは大学生相手ですが、私も家で、30年以上前、中学英語の基礎から教えさせてほしいと始めた英語は、発音記号を教えることから、というより、その頃小学校で一週間しか習わないローマ字を教えることから始めました。「あいうえお」を「aiueo」の母音と「かきくけこ」以下「ka,ki,ku,ke,ko」という子音と母音の組み合わせで日本語は出来ていること、そして、子音のみの発音の口の形と音の出し方を学んで、日本語の特徴を学びます。日本語では使わない音の出し方と特殊な記号を覚えて、これがしっかり発音できればネイティブ並み?になれます。日本語をローマ字で書けることは、発音記号が読める基礎にもなり、発音記号が読めることは、知らない単語も辞書を引けば自分で発音できて意味もわかる。だから、辞書を引くことは自分で英語を学ぶための基本なので、辞書引きも教えます。そして発音記号は万国共通なので英語以外の発音もわかります。
お向かいのJ子ちゃんは、3年生の頃から、私の顔を見ると、おばちゃん英語教えて〜と言いつづけていましたが、学校でしっかり日本語=国語をならってからね〜と、私も言い続けました。私が家で英語を教える気になったのは、子供会のソフトボールの指導者の教え方を身近に見て、あれを英語でやってみたいと思ったことがきっかけでした。

そのころ、子ども会のソフトボールは、体格の良い、運動能力の高い子供を、よそから引き抜いてでも集めてチームを作り、いわゆる英才教育で叩き込んで教える。監督の指図と顔色を見ながら試合をするというのが普通でした。ところがわが子供会の指導者M氏は、どんな子供でも毎日の訓練で十分試合を楽しめるレベルに達するし自分の頭で考えて判断できるようになるという信念の持ち主でした。その代り、登校前の30分を私に預けてほしいと言われました。
チームが成立するぎりぎり10数名の親が応じることになりました。勢ぞろいした子供たちといえば学年も4年生から6年生、体格もおよそソフトボールの選手には見えないヒョロヒョロから背丈も足りないような子供たちばかりでした。それが、毎日朝の登校前30分、唐池公園に集まって練習を始めて見違えるようになりました。どんな練習をしているのか覗きに行ったことがありました。朝の限られた時間ですので、みんなきびきびと動いて監督さんのノックを受けていました。そして、1年目、市内の子ども会のソフトボール大会で優勝争いをするまでになりました。2年目で優勝。

当時も、野球やソフトボールの指導と言えば昔ながらの指導方法を子どもにという先入観(実際にそういう指導者が多かったようです)があって、特に試合に強いチームの監督の指導方法は皆そうだと思われていました。しかし、わがチームは、才能に恵まれていない、逆にスポーツ苦手という子供でも誰でもソフトボールの試合に参加出来るんだという信念のもと、毎日の地道な基礎訓練を積んだ、いわば『民主的』な指導を受けたチームだと思っていましたから、言いがかりには反論させていただきました。もめごとがあって関わることになった子ども会担当の市の職員さん(のちに出世して助役)に、みんな試合に出たいんだから試合に全員出して勝ち負けにこだわらないのが子供会のソフトボールだと言われました。運動会でも、いっせいに走って全員が一着という勝ち負けなしの「徒競走」を本気でやり始めた時代です。

子どもたちが何のためにソフトボールやってるか分りますか、勝ちたいからです。勝ちたいから頑張ってるんです。上手くなって勝ちたいから毎日練習しているんです。M監督は、機会の平等、結果は受け入れる、ということを子どもたちに教えています。試合で失敗して傷つく子供もいます。練習で平等が実現されていれば、試合に出る出ないは、みんなで決めて、出ない子供も納得済みです。それを結果の平等、見た目の平等だけしか問題にされないのはオカシクないですか〜と。何年かたって、我が家へふらっと見えたこの助役さん、「どうですか、最近は?」と尋ねたら「昔が懐かしいです。最近は、子供会が成立しないところもあるし、親が世話役をやりたがらないし・・・」となんだか寂しそうでした。それも、もうずいぶん昔の話で、この方も亡くなってしまわれました。
で、英語でこれをやってみようというのが私の動機でした。誰でも第二言語として英語を学ぶ意味はある。得意不得意関係なく誰でも英語がわかる教え方をしてみようと思いました。子どもの時からネイティブスピーカーの英語を聞いて英語を使う環境にあり、その環境を継続して与え続けられる場合以外は、英語は日本語で学ぶことが大切だと思います。こういう考えが、もう古いのか今も通用するのか…と思っていたら、内田先生のブログです。

◎「内田樹の研究室」から「英語教育論」についての再論
今、「留学移民」が流行っているそうです。NHKでもシンガポールへ母子移住して英語を子供のうちに身に着けさせる人たちを取材していた番組がありました。
ところが、<「英語も日本語も中途半端」ないわゆる「セミ・リンガル」というケースも少なくないそうである。>と、問題点を挙げておられます。
橋下大阪市長も、自分が英語が話せないからと、小学校から英語教育を導入すべきだといって実際そういう方針を推進されているようです。ところが、実際英語を学んだものが日本語をしっかり身に着けてからで十分というと、それは自分が英語が話せるからだと言われます。(英語から遠ざかって10年近い今となっては、ほとんど読めず書けず話せずですが。) 英語を話せる、話せない前に、考えることがあります。それが、内田先生のおっしゃる目的だと思います。何のためにどの程度の英語を・・・。そうでなければ、餅は餅屋です。
◎詳しくはコチラ「内田樹の研究室」で:http://blog.tatsuru.com/2014/09/14_1017.php
(写真は道すがらの花々。夏の終わりの朝顔のブルー。ピンクの芙蓉。「かみぞの」さんの花壇で山盛りに咲いている白いボールみたいな花は、「葉っぱがアジサイではないけれど、どう見てもアジサイですね〜」と知らない人と。その横にあった赤い実はウメモドキ。オレンジ色の花はカンゾウ?)