2・26事件直後の「粛軍演説」(「英雄たちの選択」斉藤隆夫)<2>

司会の渡邉:では、まず2・26事件直後の”粛軍演説”に至るまでの斉藤隆夫です。
昭和11年(1936)2月26日 東京。 陸軍の青年将校がクーデターを起こした。武力による政権転覆をはかった2・26事件である。総理大臣官邸などが襲われ、二人の閣僚と陸軍教育総監の命が奪われた。陸軍上層部に反乱将校と気脈を通じるものがいるとしきりに噂された。軍部の暴挙に政界は声を失った。
そのわずか2か月後の昭和11年(1936)5月7日、一人の政治家が帝国技家の演壇に立って2・26事件の処理に関する軍部の姿勢を厳しく問い詰めた。身長150cmの小柄な初老の男. 民政党の代議士斉藤隆夫である。
軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります。殊に青年軍人の思想は極めて純真ではございまするが又単純である。それ故に是等の人々が政治に干渉すると云ふことは極めて危険性を持って居るものであります
更に斉藤は陸軍上層部の責任を問うた。「此の事件に関係致しました所の青年将校は20名であるのであります。所が此れ以外により以上の軍部首脳者にして此の事件に関係した者は一人も居ないのであらうか。世間は確に之を疑って居るのであります
青年将校の暴発を許した軍部の姿勢を正したこの演説は「粛軍演説」と呼ばれている。斉藤の演説に陸軍大臣も軍部の責任を認めざるを得なかった。

・この斉藤隆夫の演説は俄然注目を集め、その全文が「軍部に告ぐ」というタイトルですぐ出版された。暴力で政治に介入しようとする軍部にあらがった斉藤、国民の多くは彼を支持した。
静岡県民の言葉、「言論の勇士、軍部の圧力に恐れず国民の言わんとする所をよく言ふ、真の代議士なり、敬して止む所なし」。「ヨク仰言ッテ下サイマシタ 御禮ヲ申シ上ゲマスーーー一平卒の父」東京市民から。

・「ねずみの殿様」とは、斉藤に漫画家岡本一平が尊敬をこめて献上したニックネームだ。
斉藤隆夫の日記の研究でも知られる日本近代史の研究者伊藤隆氏によると斉藤隆夫の目指したものは終始一貫しているという。伊藤氏「(目指したものは)いわば国民の福利・幸福でしょうね。日本の国家の繁栄を中心に国民の世論・議会で政治が行われる議会政治・政党政治、これが大事だと」。

但馬国出石郡{現兵庫県豊岡市出石町) 明治3年(1870). 斉藤隆夫はこの山陰の寒村に生まれた。農村の暮らしに飽き足りない斉藤は18歳でここを飛び出した。苦学を重ねて大学を卒業、25歳の若さで弁護士になる。31歳(明治34−1901)でさらなる飛躍、アメリカのイエール大学法科大学院憲法政治学を学んだ。帰国後41歳で衆議院議員となる。アメリカで研究した立憲政治に農村出身という庶民のまなざしを加えた政治家・斉藤隆夫の誕生である。

昭和7年.元旦. 議員21年目の年頭所感にこう記している:「一、政治界に活動して次の我が党内閣には必ず大臣と為るべし。一、蓄財に注意し、家庭の基礎を安定すべし」。政治家として野心的な反面、家庭的な幸せも大事に思う斉藤の実直な人柄がうかがえる。党利や私欲に走らない斉藤は、地元但馬の青年たちの絶大なんん気を集めた。熱烈な支持の輪が広がり、出石郡立憲青年党という支援組織が結成された。「金なし、風采なし、親分なしで子分もなし」、そんな斉藤の選挙を青年たちが手弁当で支えた。

出石町にねずみの殿様の人気をほうふつさせるものが今も残っている。選挙になると今も斉藤が演説を行った芝居小屋だ。この舞台から斉藤は熱く人々に語りかけた。斉藤の演説会には500人を超す聴衆が詰めかけ立錐の余地もなかったという。立憲青年党の子孫に斉藤は今も語り継がれている。祖父が立憲青年党のメンバーだった根本さん:「演説は、声、高くって透き通るような声で喋べられるんですね。ま、とにかく、それが済んだらね、一言もしゃべられずに無口になる、と聞きました。」

出石町にある斉藤隆夫記念館には斉藤の数少ない愛用品の一つとして寄贈された一着の背広が残されていた。着古した背広を裏返して仕立て直したため反対側に元のポケットの跡が残っている。腐敗した金権政治とは無縁のつつましい暮らしを貫いた”ねずみの殿様”・斉藤隆夫。彼は常に庶民の代弁者として議会の演壇に立ち続けた。

昭和12年. 「粛軍演説」もむなしく軍部の政治介入は続いていた。事態を憂慮した元老西園寺公望が調停に乗り出した。「軍部の穏健派で知られる宇垣一成陸軍大将を次の首相候補挙げたのである。

斉藤隆夫の回顧録「回顧七十年」原稿宇垣一成は「陸軍の中堅とは違う路線を持っていた。陸軍の政治関与に彼は抵抗してくれるだろう。」 「軍人によって軍部を押さえるのだ」−斉藤は内閣成立に期待をかけていた。しかし、「意外千万にも大命降下するや陸軍首脳部は直ちに結束してこれに反対し宇垣内閣に対しては絶対に陸軍大臣を送らざることに決定したからたまらない」「陸軍万能の時代である」。2・26事件から1年、ますます力を増す陸軍に斉藤は大きな不安を覚えていた。
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司会:いろいろお伺いしたいんですが、なんで軍部に対して強く出ることができなかったんですか?
筒井:斉藤には考え方に基本的な連携があると思うのですが、帝国憲法と軍部独裁体制は相反するものであるという。その斉藤からすれば軍部の政治介入というのはとんでもないことで、基本的な憲法体制を覆すことですから絶対反対する。一点の曇りも疑問もなく間違っていると思っていたからこそ、このような演説をした。

萱野:近代的国家に対する本質的な認識があったからこそ軍部がいろんな思想でもって現実政治に影響を及ぼそうとしたときに、これはそもそも近代国家の否定なんだと、要は、これ、”政治に暴力を使わない”ということなんですよね。 近代国家として成功している国は暴力が法にのっとって行使される、国民の利益を実現する形で行使される、で、国民はそのもとで安心して経済活動に勤しめる、そういう体制をちゃんと維持している国が発展している。日本もそうでなければならない。軍部が出てくることは、国そのものを滅ぼすことになる。アメリカ留学中の経験が多分かなり影響したんだと思いますが、そういう発想なんですね。

大橋:アメリ法科大学院で彼は弁護士資格を取得しようと思っていなかったんですね、彼は。図書館に籠ってアメリカ、イギリス、ドイツとかヨーロッパの政治制度を勉強、朝から晩までそういうことをしていた。学者としても素晴らしかった

司会の磯田:「比較国会論」(1906)というのを書いていて、英米独仏伊、スイス、日本と7か国の国会の制度と憲法を比較して、どういう状況にあるかを全部みていた。世界水準の研究レベルにあった。日本の問題はどこなのか、これからどうやっていけばいいか、懇切丁寧に論理的に書いている本なんです。

司会:井上さんは斉藤の日記をつぶさに読まれた。日記から浮かぶその何か人物像というのは?

井上:本当にあの人柄が忍ばれるというか、親近感と共感を呼ぶような日記なんですね。「家族は健康なり」「唯子供等の学業成績良好ならざるは遺憾なり」と本当に人間味あふれる・・・

大橋:でも本当はお子さんは優秀なんですね。だから国民思いということにもつながるわけですよ。庶民的な生活を大事にすることが国民思いに繋がる。自分の子供たち、奥さん、自分の生活も大事にしている。こういう原点を持つ政治家でないと本当の意味の国民の代表者は務まらないと思います。

萱野:日々の細かいことに気を使いながら現実を維持しつつ最良なるものに変えていく。理念が先行して現実を変えるんじゃなくて、現実の中に最適解を見つけるところがある。 その俗っぽさが斉藤がリアリストと言われる側面につながっている

司会の磯田:人の幸せを考える俗人って悪くないですよ。あのね、そうじゃない、国家のために死ねる.なんて人はね、国家のために人も殺してね、国を滅ぼす人が歴史上多いんですよ。これは歴史を見てすごく感じることです。

司会:結局、その軍人の宇垣一成が首相になるってことに対しても斉藤は期待をかけることになっていきますが・・・

大橋:宇垣もなかなかの人物ですよ。軍人ではありますが立憲主義の本髄を知っている方だと思い
ます。憲法も理解している。そしてやはり政党のことも理解している。こういいうことで今の時勢では彼が適任じゃないかと書いている。

井上:宇垣っていうのは陸軍大臣だった時に陸軍の軍縮を進めた人、また満州事変の時には何とか不拡大で抑えようと努力した人です。また、陸軍の組織利益を守っていくためにはある程度政党とも折り合いをつけるバランス感覚があった人なんですね。

筒井:陸軍全体で宇垣時代にものすごく軍縮でいじめられたと、ものすごく予算を削られて。だから宇垣が首相になるということは、また陸軍がいじめられるのではないかと、そういうことですね。

司会の磯田:海洋国家とか軍人の国家がうまく回してくれているのならいいけど、反乱まで起こして大臣や総理を殺しに行き始めるという事態に直面して、陸軍の単独意思で国民の総意が蹂躙されるという事態が起きつつあるという危機感で、あの粛軍演説をやったんだと思う。(つづく)