コスモス咲いて・・・母の面会と父のメモ

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◎先日、映画「きみの瞳が問いかけている」を観た帰り道、住宅街を抜けて小さな教会の前のバラの花を見て直角に南に曲がると、そこの箇所だけが異様に広い道路となって、鍋田川までの広い歩道と空き地の開けた場所に出て来ます。

以前そこは貸農園の畑となって野菜や花が植わっていましたが、今は放置状態。それに、北側の行き止まりの道路工事のついでなのか鍋田川に厚いコンクリートの蓋をして、その先端がこの辺りまで来ています。何のための工事なのか不明ですが。

広くて短いこの道路はすぐ曲がり池に突き当たり、右手(西)は二中のグラウンド、左手(東)は萱野幼稚園や萱野小学校に続く道になっています。朝、映画館を目指して歩いたのはこの道でした。帰りは同じ道を通らないで当対池(トップの池の写真)の北側から住宅街に入りました。

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さて、その道と鍋田川の間にある放置された場所には今コスモスが咲いています。能勢のコスモス畑を夫の運転する車で見に行ったことがありますが、ここはミニコスモス畑になっています。今年はセイタカアワダチソウの黄色がとても美しいし、夏の花カンナの赤い花もまだ残っています。

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月曜日は、前日石鎚山から戻った夫の運転で午後2時に予約していた母の面会に豊中の緑地公園の近くにあるホームへ向かいました。前回頼まれた品々を買いそろえたり、母が入院する前に準備していた段ボールの衣類の中から冬物の毛糸を探したりしてかなりの荷物になりました。母は合いもののカーデガンを着てスタッフさんに付き添われて歩行器を使って歩いてきました。寒くなれば妹が誕生日プレゼントに渡していた暖かそうなのがあるから大丈夫かなと思っていましたが、あれは部屋着かな。毛糸のカーデガンやタートルネックのモノもたくさん入れてきたのでこれで大丈夫でしょう。

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検温、消毒、うがいのあと、ロビーのテーブルに着くと、ごめんなさいねと言いながらスタッフさんが15分間にセットしたタイマーを置いて行かれました。母は元気そうでしたが、血圧が190ほどもあってお風呂が入れないとのこと。部屋は暖房を付けていると言っていましたが大丈夫かな。先週、私たちが誕生日に訪れたあの日、私たちが帰った後、部屋で99歳の誕生日のプレゼントにお花を頂いたと喜んでいました。スタッフの方、そういえば、これからサプライズで誕生会ですと仰っていました。Wさんから頂いた籠の花が枯れたところだったので丁度良かったと喜んでいました。

◎昨日の朝、隣の実家で母に頼まれたものを探すついでに棚を整理していると、父のメモ帳が出て来ました。ノートの初め数頁しか書き込みがありませんが、短いメモでつづった日記です。丁度母が大腿骨骨折で入院した日から始まっていました。(今気づいた!私が父に頼まれてライフで買って渡したメモ帳でした。そうか、このために欲しかったのか・・・)

「30年3月16日

    貞子、骨折入院する。16日金曜午後

    夕食、XX(私の苗字)でいただく

    11時 就寝

 3/17    AM   10:20 起床

     XX, 市民病院、見舞、YY(従弟の名前)見舞

     夜 10/10 就寝

 3/18   AM 11:15 目覚める

    PM1:10 出発準備

    PM3:50 帰宅

最後は 6/1(金) ベッド1台設置 西側に置く

    6/2(土) 準備完了する 」・・・で終わっています。

入院した母が退院するまで、別れて暮らす日々を父はメモしていたのです。2018年、母が骨折で入院し、父の食事を私が作ることになった数か月の記録でした。実家と我が家と40センチほどの通路に屋根を付けてもらって直接行き来できるようにして、結婚して家を出て以来初めての父との生活を始めました。といっても夕食を共にするだけでお昼前に起きてくる父の昼食は母がやっていた通り、牛乳とパンと定番のサラダと果物と自家製のカスピ海ヨーグルトを準備して台所のテーブルに置くだけで、父は独りで食べていました。

夫は毎夕食時、食事に合わせてビール、ワイン、焼酎、日本酒からどれかを選んで飲みますが、父は赤ワインに決めていました。私も小さなグラスに注いでもらって三人で乾杯して夕食を始めました。よく、父は「これは、なに?」とお箸で持ち上げた食材を私に尋ねました。エリンギと答えると、初めてや、と言ったり。メモのなかには「在宅、なにもなし」と書いてある日も。戦争中を除いて初めて夫婦が別々に暮らす日々を父はこんな風にメモをとりながら母が帰るのを待っていたのか・・・と改めて。7月、母の糖尿病で再度の入院があり、その間また一人暮らしで102歳となり、8月の初めに退院した母とお盆を過ごし、その下旬、老衰で入院、二週間後の9月9日、父は亡くなっています。メモ帳が最晩年の父の思いを伝えてくれました。

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