☆☆(2)では、あらすじを書いていて色んな小物たちが物語の中にどんな風に織り込まれるているのか確認したくなって色を付けてみました。色とりどりの綾なす糸を紡いで織りあげた美しい織物、あるいは緩急自在、たびたびの転調を伴いながら穏やかなうっとりする音楽から一転、デモーニッシュで悲劇的な楽章が現れるドラマチックな交響曲のような物語。それが終盤、暗転して途切れるところがあります。織物に鋏を自ら入れて切断するような、音楽が突然停止するような。昔見たフィルム映写の映画館で映画が佳境を迎えたところでフィルムが切れることがよくありました。そんな時観客のみんな「え~っ!」と言いながら後ろを振り向いて映写室に向かってブーイングを浴びせます。そんな懐かしい子供の頃の光景が浮かびました。
あんなにち密に物語を組み立てて流れるようにスムーズに紡がれていくストーリーが、どうして終盤になって何度もブツ切り状態になるのだろう?と不思議でした。その都度、もうこれで終わり?と思ったことも。終わってほしくないという思いが反射的に”いや、そんなはずはない”と打ち消しますが。
一ヶ所は時間の経過を表すための暗転かなと思うところもありますが、そのほかの暗転が不思議。そこで、考えたのが、監督さんの何か意図がある切断、暗転なのではないかということ。それを考えてみたいと思いました。その前に、映画のテーマについても整理してみたいと思います。
(リメイク元の韓国版は未見、ノベライズも未読、チャップリンの「街の灯」の淡い記憶があるだけで映画「きみの瞳が問いかけている」だけを見ての感想です・・・)
明香里と塁の境遇と性格
二人の境遇と性格を比較すると、境遇は似ていますが性格は似ていません。
・明香里は自分が運転する車の事故で両親を死なせている。その罪を自覚しているので目が不自由になるという罰を受けていると考えて盲目という不幸を受け入れている。しかし、視覚障害者であっても前向きに生活も仕事も健常者並みに頑張って明るく健気に生きている。「たとえ傷を負ってもあの時の傷はこの先の幸せのためのモノだったって思いたい」という積極的なプラス思考で楽天的。
・塁の境遇は、3歳の時無理心中を図った母と一緒に死ねなかった生き残りであの時死ねば良かったという思いを抱えている。その後は児童養護施設の修道院で育つが、長じて先輩恭介に誘われて半グレ集団に加わり恐喝まがいの用心棒として暴行を働き、そのせいで一人が焼身自殺を図っている。警察に捕まり3年5か月の刑期を終えた前科者で罪の意識に捉われている。性格は消極的なマイナス思考で悲観的。
明香里と塁の決定的な違いは家族
・明香里は両親が亡くなってはいても、好きな人が出来たら一緒にお墓参りに出かけて墓前で紹介もする。両親は死んだとはいえ暮らしの中に今も生きています。それに成人して大学を出て25歳まで両親と暮らしていた幸せな家族の体験があります。温かい家庭の実感をしっかりもっています。
・塁は物心ついた頃から孤児であり、母の面影と言えば幼子の自分を抱いて海へ向かうというシーン、常に死の誘惑を伴った母のイメージを抱えて孤独。その後施設で優しいシスターの下で暮らすが、家庭の味は知らない。痛めつけた血だらけの坂本に「家族がいたらわかるだろう」と言われた時、塁は絞り出すような低い声で「俺に家族はない」と言っている。家族に愛された記憶はない。
「椰子の実」の歌と明香里
映画の中で明香里が歌い、そしてやがて塁も歌うようになる「椰子の実」の歌ですが、かなり早い段階で歌われます。駐車場の管理人室で塁と2回目に会った日、塁が差し出す桃をもらって家に帰った明香里が洗濯機を回しフォークに刺した桃を食べながら口ずさむのがこの歌。普段から何気なく口ずさんでいる様子が分かる。
椰子の実(やしのみ)』は、1936年に発表された日本の歌曲。
作詞:島崎藤村、作曲:大中寅二。
歌詞『椰子の実』
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)
旧(もと)の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷の涙
思いやる 八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん
その後、 12月25日クリスマスの日のお墓参りのバスの中で明香里がこの歌を小さな声でハミングするように歌い、塁が後に続くように歌い出す。この時、明香里は「この歌は私にも帰る場所があるんだという歌」だと塁に話す。今は海の上を一人漂い流れ着いた椰子の実の私もいずれの日にか帰る場所があって、そこに帰っていく。いずれ家庭を持って家族を作る、すなわち塁と暮らしている今の家こそ帰る場所。
塁は次第に明香里の明るさに心を開いて明香里を受け入れるようになる。やがて二人は愛し合うようになり共に暮らすようにも。ボクシングジムから家の前の階段を弾むように上ってきた塁に明香里が「お帰り」と言って塁が「ただいま」と答えて明香里に迎えられるシーンがあります。この時点では塁にとっても帰る場所は明香里と暮らす家であったはず。それが、なぜ、最終場面で塁は海へ帰っていくことになるのか?
クリスマスの衝撃(天国から地獄・テーマの切り替え)
お墓の前で明香里が語る事故の顛末を聞いて愕然とする塁。明香里は両親を乗せて運転中火だるまの男が空から降ってくるのを見て我に返ったら事故を起こしていたという。塁はその日、ビルのその場所にいて、坂本が油をかぶってライターで火をつけ火だるまになって落ちていくのを窓から見た、そして事故を起こした車も。間違いなく自分は明香里の両親の死と明香里の失明の原因を作っている。罪の意識にさいなまれる塁。ここから「街の灯」とは別の物語に。「街の灯」(あるいは韓国版?)の大胆な換骨奪胎のスタートです。
シスターと塁の「罪の意識と贖罪」をめぐる会話
(★「街の灯」は年上の健常者が年下の視覚障害者へ『無償の愛』を捧げる様子を描いていますが、この映画はここから『無償の愛』から『罪の償い・贖罪』の話になっていきます。「犯した罪はどうすれば赦されるのか」と言う塁の問いかけが新しいテーマになっていきます。)
迷ったとき、悩んだとき、行き詰ったときは必ず訪れるシスターの元、迷える子羊が今度も身を寄せ、シスターが持ってきてくれた温かいスープに気を取り直した塁は、シスターの制作中だというオルゴールの話を遮って問いかけます:「過去の罪はどうやったら赦されるのですか?」。「あなたはもう十分に償っている」と話すシスターに、「何も償えていなかった。それどころか幸せになってほしい人を何時だって不幸にしてしまう(明香里の両親を死なせ愛する人の失明の原因を作った)」と話す塁に「あなたには大切な人がいるのね」と気づいたシスター。「どうすれば罪は償えるか?」と問う塁に「過去は変えられない。今、捧げられるものを捧げるしかないわね。でもあなたを許していないのは、あなただけなのよ」と諭します。
ここから塁は決意を固めます。その前に明香里を襲った上司を痛めつけたとき、明香里に「責任は俺がとる」「俺が明香里さんを助けるから」と宣言していましたので、シスターの「今捧げられるものを捧げる」というのは、「明香里の目の手術代を得るために無法な地下の賭け試合で勝つこと」と決めたのですね。そして明香里を恭介から守るためにも自分は明香里とは二度と会わないと。
命がけの試合に臨む塁。試合の結果は恭介の意に反したものに。意外にも塁が勝ちます。塁にとっては明香里の為に賞金を得たい一心で勝機を狙っていました。凄まじい試合でボコボコにされながらも塁の獲物を狙う目が光ります。塁は試合に勝ちます。その結果、自分が不幸にした二人、坂本の残された妻と明香里の二人に罪の償いの大金を渡すことが出来、明香里の目も手術がうまくいったことをコーチに電話をして知った塁は「良かった~本当に良かった」と喜びます。贖罪は果たされた。電話ボックスを出た塁はここで待ち伏せていた車に轢かれ背中を刺され路上に倒れます。暗転。(映画は此処で終わっても良いようなシーンですが・・・「街の灯」では無償の愛の贈り主を盲目の時の手の感触が覚えていて探し当てることになりますが、この映画では手術代の贈り主が塁であることは解っていて、塁はこの後2年間、行方不明です)
「きみの瞳が問いかけている」(”お帰り”と”ただいま”)
塁が明香里のパソコンの蓋に点字で張り付けてあるこの言葉に気づいたのは、初めて明香里の部屋の中に入って排水溝のつまりを直した日のことでした。その後、二人が一緒に暮らすようになってから、塁が「なんて書いてあるの?」と聞いて明香里が説明します。「ロミオとジュリエット」の言葉で、ジュリエットの目を見たロミオが言うセリフ「彼女の瞳が問いかけている。僕は答えなくてはならない」。塁はこれを知ったときから以前にもまして明香里の見えない瞳を覗き込むようにして『きみの瞳の問いかけ』を知ろうとし『答えよう』とします。
ここで二人の目について。明香里は親しくなった塁とベッドの上に座って柔らかな逆光のなか塁の顔を見せてと言いながら初めて塁の顔を見るシーンがあります。手で順番に顔のパーツを触りながら両手で見ます。一方塁はこれ以降、見える目で見えない明香里の瞳を探るように覗いて愛する人の問いかけに答えようとしてきました。
明香里も気づいていた塁の「死の誘惑」
明香里は見えないけれど塁の心が見えていた。あれは明香里が初めてどこかへ連れて行ってと言った時、塁が連れて行ったのは母親が無理心中で小さな塁を胸に抱いて海の中に入って行ったという風力発電の風車が回る海岸でした。その時塁が話した母への憧憬にも似た死の誘惑に明香里は気づいていました。「どうして一緒に死んであげられなかったのか。僕だけが生き残った」と話す塁に明香里は塁の話を打ち切るように「シーグラスを探して」と塁に頼みます。塁が探してきた赤いシーグラスを手にして明香里が言います「ガラスもここまで削られたら誰も傷付けない。傷ついたことのある人は優しくなれる。このシーグラスは二人を繋ぐお守り」。死の誘惑から生の世界に塁を繋ぎとめるお守りを明香里は渡していました。
塁は見えない明香里の瞳が問いかけるものを見てその都度答えを探していました。でも、それは結局、自問自答を繰り返していたにすぎなかったのかも。
明香里と塁の別れ
目が不自由なことは事故を起こして両親を死なせた自分への罰だと受け取っていた明香里に、手術をして幸せな未来を自分の目で見たくないのかと塁は希望の明りを明香里に与えて自分は明香里の元から姿を消す覚悟。胸を打つ別れのシーンです。命を掛けた見返りを求めない塁の愛ですが、明りを取り戻した明香里の瞳が塁を見ることが出来ないというのは残酷です。
退院したものの塁の突然の消失に打ちひしがれている明香里の元に塁宛にオルゴールが届いたことから明香里は修道院にシスターを訪ね、そのシスターの話から自分が起こした事故の原因の落下する火だるまの男と塁の関係を知ります。そして塁の罪の意識と贖罪の気持ちを聞かされた明香里は、塁が自分の元から姿を消した理由を知りました。
一方塁の方は、明香里が起こした事故に自分が関わっていたことを隠したままで明香里の元を去っていましたので、明香里が塁の罪を赦しているのかいないのかを知らないでいます。
塁の「帰る場所」(死んだ母の眠る海)
松葉杖で歩けるようになって、明香里がスクを連れて店を出たのを見計らって店を訪ねた塁。店の名前が自分の洗礼名「Antonio」で、 二人の思い出の金木犀の苗が店にあったこと、そしてシスターが言っていたあのオルゴールが非売品として置いてあったこと。これらを通して明香里が今も塁を愛していることは解るけれど、自分は傍にいる資格はない、愛する人を不幸にしてしまうと思い込んでいる塁。オルゴールの蓋を開けると「椰子の実」のメロディ。この歌は「帰る場所があるという歌」と明香里が言った。塁にとって今「帰る場所」は、あの二人で訪ねた思い出のあの浜辺、それは母との思い出の海でもあると、塁はその海岸に向かいます。
少しの行き違いで塁が店を出たあと、金木犀、オルゴール、椰子の実の歌と塁の涙、塁の姿を見つけて吠えながらとびかかったスク。先ほどの松葉杖の青年が塁であると分った明香里は塁を追いかけますが、結局見当たらず路上に泣き崩れます。その手にはオルゴール。オルゴールの曲は「椰子の実」。明香里には、塁が向かった先が分かります。
塁のもう一つの「帰る場所」(絶望―あかり―再生)
最終場面。椰子の実の一節を口ずさみながら赤いシーグラスを手に海に入る塁。そこは死んだ母が眠る海。孤独な椰子の実が帰る海。車で追いかけた明香里が「ルーイ!」と呼びかけて、振り向いた塁に近づいて明香里が掛けた言葉は、
「ここじゃないよ、塁の帰る場所は。一緒に帰ろう」
「私の目を見て」・・・「お帰り」・・・「ただいま」
明香里に抱きしめられてもう一度今度は少し大きく「ただいま」
塁が自分に問いかける明香里の光を取り戻した見える瞳を、目と目を合わせて見たのはこれが初めて。
(このシーンの前、病院でベッドに横たわる塁にマッサージのボランティアに来た明香里と恐る恐る目を合わせるシーンがありますが、この時は明香里は目が見えていても塁の顔を覚えているのは手と耳だったので、名前を変え一音も発することのない塁には気づけず、また塁は出かかる明香里という名前を飲み込んで名乗りを上げられないまま。立ち去る明香里を塁があの赤いシーグラスを手に目で追いながら嗚咽する痛切なシーンとなっています)
塁がそれまで見ていたのは明香里の「見えていない瞳」でした。
焦点の合わない明香里の瞳を塁は探るように見ていました。
今、塁のお陰で光を取り戻した明香里の瞳を塁が初めて見ます。
いまやっと、その瞳が語り掛ける言葉が理解できて正しく答えられたのです。
「そこじゃないよ、塁の帰る場所は・・・お帰り」「ただいま」。
明香里は塁を赦している、明香里は塁を愛している。
罪の意識を抱えながらその罪を償いながら生きていくためにも塁は赦されなければなりません。明香里にはわかっていました。共に愛し合って生きていくことで二人の罪は償われることを。とっくに明香里は塁の罪を赦して塁が自分の元に帰ってくるのを待ち続けていました。
何回かの暗転の意味は?
さて、では、あの違和感の伴うぶつ切りの暗転、これで終わり?と何度も思わせるあの暗転は?どう考えたらよいのか・・・・もしこれが現実なら、あそこで終わっていたかもしれない。あの路上で車に轢かれナイフで背中を刺されて死んでいたかもしれない。それよりも前のあの無法な死闘で負けて死んでいたかもしれない。2年後、あのまま塁が明香里の店を訪ねていなければ、二人はそのまま離れ離れだったかもしれない。あのまま明香里が諦めて塁を探さなければ、あるいは塁が海へ向かったことが分からなければ、二人は二度と会うことはなかったかもしれない。たとえ駆けつけたとしても間に合わなければ塁はそのまま命を絶っていたかもしれない。
この物語には幾通りかのエンディングがありうるという暗示のための暗転?! そしてまた映像が続くのは、ここで終わらせないで希望をつないで生きていけば別の道が開ける、諦めなければ希望へと続く道が開けるかもしれない、生きていれば、こんなハッピーエンドを迎えられるかもしれない、そのなかの最上級の幸せなエンディングを提示して映画は終わる・・・
★絶望して、亡き母の懐の海に帰ろうとする塁に一条の明りが差して、塁はこの世につなぎとめられる。この時の明香里は塁の全ての罪を赦して胸に抱く聖母であり、これから生き直す塁の新しい生母でも・・・・いい映画でした。
塁は生まれ直して、今より少し楽天的で前向きでプラス思考になって明香里と幸せな家庭を築くことでしょう・・・。
★映画の撮影中、塁の目を見ないで演技していた吉高由里子さんが映画を観て横浜流星さんがこんな豊かな表情をしてたの…とその多彩な表現に驚いたという感想がとても素敵です。辛い過去を背負う塁を生きている撮影の間、吉高さんの明るさに何度も救われたという横浜流星さんの感想もまるで塁そのものでさすがと思いました。
★ 最後に、先日ブログで紹介した奈良少年刑務所の二人の少年の詩を紹介した記事を張り付けておきます。服役中の少年が書いた詩です。愛されて育っていれば誰も刑務所へ来なかったかもしれないと寮さんは書いています。それほどみんな優しい子たちだそうです。
愛されるより愛したいという人はたっぷり愛されたことがあるから言える言葉。愛されなければ愛し方は分からない。生まれた子どもは血の繋がりがなくても誰かから抱きしめられて愛されて育てばいい人に育つと私も思います。犯した過ちを悔い改めて反省すればやり直せる優しい社会であってほしいと思います。 この映画でも刑期を終えた塁はシスターやジムのコーチや会長から優しく迎えられていました。そして愛し合う明香里に出会って強くなれました。
<PS>寮さんの「ハルメク」最終回です:
奈良少年刑務所「人間の本質は、優しさでした」(寮美千子さん) - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com)
【追記】横浜流星さん2021年の抱負も「優しく生きたい」です。
12月7日の「エルメン賞」の俳優部門を受賞した横浜流星さんの授賞式での言葉:
<受賞作について>毎回自分の代表作にするという思いで芝居をやっていますが、塁という役をシッカリその世界の中で”生きれた”と感じていたので、そんな作品が皆さんの心に届いていると思うと嬉しい。僕自身も人としてすごく学ぶことが多い作品で、ずっとこれから先も心に残る作品となった。
<2020年はどんな年?>嬉しいことも悲しいこともすごく沢山あった年で、人の優しさに救われたりとかしたので、自分も周りをもっと意識して優しく生きたいなと個人的に思っていて、凄く色々考えて、自分の気持ちが定まった年ではありました。
<2021年はどんな年に?>皆さんに良い作品を届けられるよう全力で”役”として生きるのみです。