◎芦原池の桜
◎ツィッターで見つけたこの言葉、「アスリートが『感動を与えたい』という違和感」に激しく同意!!!! 最近、流行りの言葉のようですが、この言葉を聞くとイヤな感じを受けます。感動するかどうかは受け手の側次第、それをアスリートたちが「感動を与える」ことを目的にすることが何だか気持ちが悪いのです。何故、この言葉に拒否反応がでるのか、元男子フィギュアスケーターの町田樹さんの記事です:
★フィギュアスケートの町田樹(たつき)さんといえば、2010年代に大活躍した男子選手でした。スケートを止めた後、どうされているのか…不明でしたが、今回、この記事で、スポーツ科学者という研究者になっておられることが分かりました。
2012年中国杯金メダル(隣は高橋大輔選手)
2013年スケートアメリカ金メダル
2014年世界フィギュアスケート選手権銀メダル(金は羽生結弦選手)
★それでは1~4頁のうち1.2は省略、3の途中からコピーです。(下線太色字by 蛙)
全文はコチラで:アスリートが「感動を与えたい」という違和感──元フィギュアスケーター・町田樹がいま伝えたいこと #ニュースその後(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
嫌悪感さえある「感動を与えたい」という言葉
もう一つ、当時から「頑張ります」と並んで町田さんが首をかしげてきたアスリートの言葉があるのだという。違和感を通り越して、嫌悪感さえあるという言葉。それが「観ている人に感動を与えたい」である。 「私が現役だった十数年前くらいから『感動を与えられるように頑張ります』ということを語るアスリート、もしくはスポーツ界関係者や政治家が増えたように感じています。東京五輪の招致活動も関係していたかもしれません」
長引くデフレで活力を失い、東日本大震災にも見舞われた日本。そこに「復興五輪」「オールジャパン」を旗印にした東京五輪招致が持ち上がったのが震災のあった11年のことだ。「スポーツの力」といった言葉が多く使われるようになり、アスリートやメディアから「感動を与えたい」「勇気をもらった」というフレーズが頻繁に飛び交うようになった。
これらの言葉を、町田さんが受け入れられなかった理由はどこにあるのか。
「アスリートがいなければスポーツ文化は成り立ちません。これは確かですが、その一方でアスリートのほかにも、競技団体で働く人、用具を製造する人、施設整備に関わる人、さらに観戦してくれる人たちがいて、初めて競技が振興できているわけですから、そういう人たちに対して『与える』という上から目線での発言には違和感を抱いていました」
「そして本来、感動するか否かは受け手に委ねられているものです。Aさんは感動しても、Bさんは感動しないことだって普通にあり得ます。それはフィギュアでも同じです。『感動を与える』という表現は、あたかもアスリートがベストなパフォーマンスを発揮すれば、誰もが喜ぶと一方的に『感動』を押しつけている印象を受けます。スポーツは無批判に『良いもの』とされ、皆が感動するだろうと思い込むことの傲慢さみたいなものを、現役時代から感じていました」 「感動」は送り手の創造力と受け手の感受性があって初めて生まれるもの。それなのにスポーツの力という錦の御旗の下、「感動」が氾濫している──。
フィギュアという勝負論の枠に収まらない、多様な評価軸や価値観も共存するアーティスティックスポーツの担い手ならではの視座といえるかもしれない。 加えて、町田さんがもう一つ危惧することがある。それはアスリートに「感動を与えたい」と言わせるような世の中の空気だという。それを如実に感じたのが、スポーツが“不要不急”といわれたコロナ禍だった、と町田さんは語る。 「コロナ禍においては残念ながら、アートやスポーツが『不要不急なもの』としてくくられる中で、アスリートも自らの存在意義、あるいはスポーツの価値といったことを、すごく考えたと思います。そういう空気に触れると、アスリートも競技だけでなく、何かプラスアルファを社会に還元しなければならないのではないかと考えるのは当然かもしれません。自分のパフォーマンスで経済波及効果をもたらさなければいけない、会場や日本を一つにしなければいけないと、責任を感じてしまうのは無理もないでしょう」
アスリートにいま伝えたいこと
「『スポーツの力』や『感動を与える』という言葉には、時として社会をも動かす大きな力が宿ります。しかし、そもそもスポーツは、たとえ経済発展や平和の創造や感動を与えることに貢献しなかったとしても、この人間社会において、古代から脈々と継承されてきた、かけがえのない『文化』なのです。ですから、アスリートとして誇りを持つべきです。アスリートは競技を行うだけで、すでに十分に役割を果たしていると私は思います」
スポーツ文化の一端を担ってきた者としての自負と、アスリートへのリスペクトがにじむ言葉だ。 この夏、パリに100年ぶりの五輪が戻る。最近はメンタルヘルスの問題を告白したり、LGBTQなどの多様性を自ら発信するアスリートも増えている。五輪などのスポーツイベントも地球温暖化や脱炭素を意識した運営が求められる時代になり、Z世代のアスリートたちはこうした問題にも敏感だ。アスリートの言葉に、今まで以上に注目が集まっていると町田さんは感じている。
「これからの時代を担うアスリートは、スポーツのメディアバリューをしっかりと自覚したうえで、いかに自分の言葉で語ることができるかどうかが、大事だと思います。『スポーツで感動を与えたい』というような安易な気遣い発言は一切いりません。もちろん、私を含めて、スポーツを観る側、語る側の人たちも、アスリートからそのような言葉を引き出そうとすることを自制する必要があるでしょう。パリ五輪ではいつも以上にアスリートの発言に注目が集まることと思います。そのとき、カメラを向けられたアスリートが自らの意思で、自らの考えや心情を語ってくれることを期待しています」