青木繁展へ

「没後100年 青木繁展 よみがえる神話と芸術」
類いまれな才能を持ちながら、貧しさと病の末に28歳の若さでこの世を去った洋画家、青木繁。短い生涯に残した作品は決して多くないが、ドラマチックな作品とその悲劇的な人生の逸話とが相まって今も伝説的な存在であり続けている。この展覧会では、国重要文化財2点を含め油絵約60点、水彩画・素描など約170点、更に書簡、書籍など多数の関連資料を加え、没後に評価が確立するまでを含めた青木の画業のすべてが網羅されている。(毎日新聞特集より)

京都国立近代美術館でやっている青木繁展が10日までだというので5日(火)の朝、急遽「行くぞ!」となって出かけることに。
11時過ぎ病院に父を見舞って、今から京都へと言うと「あぁ、あの漁師の絵の…」と言いますので、「そう、そう、それ」と私。
上村松園で京都へ出かけて以来のドライブです。東寺の塔が見えて、しばらく大回りして八坂さんの前から一路岡崎の平安神宮へ。大鳥居が見えた辺りで地下の駐車場へ。丁度お昼の時間ですが、食事時で空いているだろうと先に美術館へ。
毎日新聞社も主催していて、新聞の特集がチラシの横に積んでありましたので、父へのお土産に丁度良いと2部づつもらいました。カッコ内の説明はその特集記事からです。
青木繁(あおき・しげる)1882(明治15)年、福岡県久留米市に生まれ、1911(明治44)年、福岡市の病院で死去。青木繁というと、大昔(30年以上?)読んだ松本清張の「青木繁坂本繁二郎」の印象が強い。同郷の仲良しの二人を芸術上のライバルとして描き、天才で早世した青木繁の才能を誰よりも理解し妬み・・・というと、そう、まるでピーター・シェーファーの”モーツァルトサリエリ”、というより、逆で、映画「アマデウス」やお芝居になった”モーツァルトサリエリ”の関係が清張の描いたあの二人にソックリと思ったものです。ところが、展示してある青木繁の書簡では、坂本繁二郎に全幅の信頼で何くれと頼みごとをしています。あれは松本清張の意地の悪いフィクションだったのだろうか・・・もう一回読んでみたくなりました。
筆で書いた手紙がたくさん残っているのですが、素晴らしい字です。字配りというか墨の濃淡、字の大きさ、崩し具合、どれもデザインされたようなバランスの良さが見事です。画学生時代、妙義山へスケッチ旅行に行った旅先の旅館の宿帳が展示されていました。「族籍・国籍」欄があって、青木繁は、「士族」、「職業」欄には「画伯」、年齢は上にサバを読んで24歳と記入。明治のその頃、絵を描くために久留米から東京へ出てくるというのは明らかにエリートなんですね〜。同じ頁に「平民」と書いている人もいました。青木繁は自らをアレキサンダー大王に準えて(漢字で「歴山大王」と)男としてこれからやるべきは芸術の道と意気軒昂!です。

 「明治37(1904)年、22歳の青木は東京美術学校を卒業。坂本繁二郎らと千葉県館山市の布良海岸に写生旅行に赴き「海の幸」などを制作」(「毎日特集」)。この横長の絵が「海の幸」です。
グイグイと荒々しい素描の上にザックリと茶系の色付けがされています。両端の人物は大胆に省略されて輪郭だけです。仕留められた3頭のサメを担いで漁師たちが意気揚々と行進しています。真ん中のサメの右横の人物だけが顔を白く塗ってありこちらを見つめています。恋人の福田たねがモデルと言われています。

翌年、この福田たねとの間に長男幸彦誕生。あの♪ヒャラ〜リヒャラリーコ、ヒャリ〜コヒャラレーロ、だ〜れが吹〜くのか、不思議な笛だ♪の「新諸国物語・笛吹き童子」の主題歌を作曲した福田蘭童は青木繁の息子です。
チケットの縦長の絵は「わだつみのいろこの宮」。この絵は、夏目漱石が「こころ」のなかで、この絵の感想を言わせています。作品のモチーフは、「『古事記』のなかの山幸彦が海底にある宮殿で豊玉毘売(とよたまひめ)と侍女に出会う場面。青木は自信を持って1907年の東京府勧業博覧会に出品、結果は3等という不本意なもの。その直後、父危篤の知らせで帰省。中央画壇に復帰することなく1911年、病に倒れた。作品数が多いとは言えないうえ、若くして亡くなった青木の作品のうち2点がその後、重文指定を受けた。そのうえ、教科書に載るまでの評価を確立したのは、作品の多くを収集した久留米の実業家、石橋正二郎らの尽力や美術評論家の河北倫明の研究があってのことだ。」(毎日特集より)
重要文化財の2点(↑→)はもちろんですが、私が印象に残った絵は海シリーズの一つにも数えられる「朝日」です。
1910年に描かれた絶筆と言われる絵で、今は佐賀県立小城高等学校同窓会黄城会蔵となっています。この絵は唐津にてと書いてあるのです。つい最近、原発の再開を認めた玄海町の隣町ですね。この海はやはり放射能で汚染させてはいけないと、青木が描いた朝日にきらめく神々しいほど美しい100年前の唐津の海をしばらく見入っていました。