もたもたしているうちに、NHK朝のテレビ小説「スカーレット」、陶芸家の二人は離婚してしまいました。本当は2週間ほど前にブログに載せたかったのですが・・・
◎先ず、終わったドラマの話ですが、演技論を書いておられるブログを見つけました。そこに「いだてん」は何故、後半の第二部から急に面白くなったのかが書かれていました。ドラマは脚本がすべてという言葉もありますが、同じ脚本家のドラマが前半と後半で評価が違う、これは前半の主役と後半の主役の演技が違うからだというのですが、いかがでしょうか。私自身は、後半がテンポも速く俄然面白くなったと感じた一人ですので、書かれていることはとても合点がいくと思って読みました。
でも、面白いかどうかは見る人によってそれぞれ。我が夫は後半に入って主役の演技が大仰で騒がしく”うるさい”と見なくなってしまいました。多数派がどっちだったのか分かりませんが、演技の違いも好みには勝てないということでしょうか・・・
・さてそんな超低視聴率大河ドラマ『いだてん』が第二部に入って急に面白くなったのはなぜか??? てゆーか逆に第一部があんなに退屈だったのはなぜなのか? 同じ脚本家のホンだし、同じ演出部なのに、となると??? ・・・いろいろ理由はあるんでしょうが、その「演技」の部分を紐解きたいと思います。 演技ブログなので。
第一部と第二部。 変わったのは主演俳優たち・・・そして「押す演技」と「アンサンブルのグルーヴ感」です。
◎ 愛しているのに別れてしまった「スカーレット」です。女性が結婚しても仕事を続けること自体が困難だった時代、陶芸家として生きる喜美子にはいろんなプレッシャーが待ち構えていました。夫八郎にしても働く妻と家庭・家族の問題は当時の男性として直面する難題だったのですね。あるいはこの二人の問題は、どちらかが何かをあきらめるか、性格の違いもありますし、今も問題でありつづけているのかも・・・
・ここを境に、芸術ひとすじだった八郎が芸術作品を創ることをいったん諦めて、弟子の三津に勧められるままに和食器セットとか実用品をつくってゆく流れが始まる大きな分岐点のシーンなんですね。
これ、普通の今までの脚本だったらもっと二人の個々の心情を説明するような感情的なセリフがあるだろうし、普通の今までの俳優の演技だったらもっと八郎の辛そうな表情とか演じるんでしょうが、それが無いんです。なぜか・・・無くても視聴者に伝わるからです。
だって視聴者の誰もが今までの人生の中で、親しい人間の善意による言葉や行動に傷つけられて、笑顔で「ありがと」と返した経験があるからです。
しかも「ありがと」と言われた相手は、自分が傷ついたことに気づかなかったりするんですよ。こっちが笑顔で返したから・・・ここに「ディスコミュニケーション」が発生するんです。仲の良い2人なのに。お互いに相手を思いやっている2人なのに。そしてこのディスコミュニケーションは放っておくとどんどん拡大してゆきます。
芝居の構造を解析すると・・・会話自体は普通に成立しているのに、登場人物たちの気持ちに微妙なボタンの掛け違いがあって、その掛け違いが日に日に大きくなってきているのです。
しかもそのボタンの掛け違いに登場人物たち本人が気づいていない!(笑)
朝ドラ『スカーレット』の14週~16週が描こうとしているのはこの悲劇だと思います。しかもセリフや表情で説明したり誇張することをしないで、あくまでリアルな人間の反応を見せることで「仲の良い夫婦がお互いすれ違ってゆく」をあくまで静かに&リアルに表現しようとしています。ココが日本のドラマ・映画の演技として圧倒的に新しいと思います。
◎最後に、スターウォーズ。これは最終作を見た時に私も感じたことが書かれているので納得です。全部を見たわけではありませんが、真ん中の3部作、特にエピソード(EP)5(帝国の逆襲),6(ジェダイの帰還)が一番良かったと思います。ルークとレイア姫とハン・ソロ、ダースベーダーもオビ・ワンもヨーダも、それぞれのキャラクターがはっきり今でも思い浮かびますね。それぞれが人間的な悩みを抱えて生きていました。そこが良かったのだと書かれていて面白かったです:
・こういう人間らしい表現を含んだ演技が新三部作には、特にEP8とEP9には少なかったと思うんです。ユーモアと・・・生活感?
まだEP7前半部では、レイはガラクタ漁りの孤児の女の子を、フィンは元ストームトルーパーの脱走兵の若者を、それぞれの生活感たっぷりディテールたっぷりに魅力的に演じていたんですが、2人が反乱軍に入ってからはそういう人間味がどんどん減っていって、代わりに「戦士」っぽい直線的な演技をするようになっていきました。
厳しい表情で遠くを見つめたり、「決意」みたいなキリッとしたステレオタイプな表情をしたり・・・いや〜脚本に書いてある事だけを演じているとそういう事になっちゃったりするんですよねー。でもそれではシーンを演じてるだけで、人間を演じてるわけではなくなってしまうんです。
・たとえばEP4~6でのルークは一貫して「楽観的な田舎ボーイ」だったし、ハンソロは一貫して「金の匂いにうるさくて用心深いアウトロー」だったわけで、それが物語がどんなに佳境に入っても変わることはなかったからキャラクターとしてキャラ立ちして、愛されたんですよね。
・EP9で、ジェダイの霊体としてレイの目の前に現れたルークもよかったなあ。「楽観的な田舎ボーイ」でもありジェダイマスターでもある老ルークを見事に魅力的に演じていたと思います。 優しいんですよね、彼は。
・自分が最大の敵パルパティーンの孫だった!ということで苦しんでいるレイの気持ちが、まったく同じ問題で悩んだ経験のあるルークには痛いほどわかる。 なので彼はジェダイマスターとしてレイに話しかけてるのではなく、かつて悩める青年ルーク・スカイウォーカーだった男として話しかけているのです。彼が生来持っている優しさ、そしてユーモアたっぷりに。
・役割として相手に接するのではなく、ひとりの人間として相手に接する、それがシーンを悲痛なだけでなく暖かいコミュニケーションと感動あふれるものにしています。
あとはねー、このルークの素晴らしい演技に対してレイがね、キリッとした緊張した表情で「決意」とかだけを直線的に演じるのではなく、もっと無防備になれてたら、もっともっとレイの人間性が出てディテール豊かな素敵なシーンになったんだと思うんですよねえ。。。
・総論として『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』は、ファンサービスやサプライズにあふれた素晴らしいエンターテイメント映画ではあったのだけど、演技&役作りが説明的で直線的だったので、人物の魅力が出にくかったし、キャラ同士の相互作用が少なかったのが残念。といったところでしょうか。
演技の相互作用とは何か。
たとえばEP4~6とかでは、まずルークの目から見た世界があって、ハンソロの目から見た世界があって、レイアから見た世界があって、ダースベイダーの目から見た世界があって、彼らが相対した時、そこから生まれる彼らのそれぞれの生き様の違いが大小さまざまな摩擦を起こしてゆくんです。
その摩擦に満ちたやりとりをイキイキと演じることで、それぞれのキャラの個性・魅力が可視化されてゆく。
その摩擦から生まれた魅力がこの42年間も観客を『スター・ウォーズ』の世界に魅了して続けてきた、ということなんだと思います。
あ~新年早々、長文になってしまいました。最後までお付き合い下さってありがとうございます。
さて、今回の『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』はJJがディズニーから突き付けられた「スター・ウォーズという版権を救え!」というミッションとしては100点だったと思います。・・・でもね、1978年に公開された『スター・ウォーズ/新たなる希望』は100点どころか、100点満点で100万点の映画だったんですよ。 だから42年間も愛され続けているんです。
『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』は過剰なファンサービス満載の甘い甘い豪華なスイーツのような映画でしたが、2019年の映画としての生々しい表現は無かったし、2019年の観客が夢中になれるような新しいドラマも無かった。・・・ボクはそのあたりを俳優たちにもっともっと頑張って欲しかった。もっと魅力的な人物たちが活き活きと生きてる映画が観たかったんです。
だってアダム・ドライバーの「両手を広げて肩をすくめてニヤッと笑う」だけで、そのたった1秒だけの演技で、その人物の数十年分のドラマや様々なことを表現しうるし、2019年の世界に住む人間にとって切実な問題を描き出すことだってできるのですから。。。
そう、演技ってすごいのです。
小林でび <でびノート☆彡>
PS:内田樹氏のツィッターで珍しい大島渚監督がスターウォーズの魅力を語る動画を見つけましたので:
『スター・ウォーズ 人気の秘密と舞台裏』1983年(昭和58年)
— らっこまん7 (@ymtgt435) 2020年2月7日
ジェダイの復讐(当時)のメイキングを紹介するバラエティ番組
司会:大島渚 / 松岡きっこ
大島渚監督が嬉々とした表情で司会をしている場面
熱狂を持って迎えられていた当時の様子が伝わってくる
ここでははっきりと<9部作>と明言している pic.twitter.com/J1W32aeNrj